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NBA

【NBAスター悲話】ドラゼン・ペトロビッチ――クロアチアが生んだ不世出の天才バスケットボールプレーヤー【前編】

大井成義

2019.12.06

■1試合112点の快記録を達成したクロアチアが生んだ天才

 1964年、旧ユーゴスラビア連邦クロアチア共和国にある小さな港町シベニクに、警察署長の息子としてペトロビッチは生まれた。一足先にプロ選手となる5歳年上の兄の影響でバスケットボールを始めると、極端なまでに負けず嫌いだった少年は瞬く間に上達していった。厳格だった父は学業を疎かにすることを嫌い、それゆえ毎朝登校前の練習が少年の日課だった。

 15歳の時に地元のクラブ、BCシベンカに入団。U-16、U-18の舞台で数々のタイトルを獲得し、高校卒業後はザグレブ大で法学を学びながらプレーを続けた。若くして頭角を現わしたペトロビッチは弱冠18歳で正チームのレギュラーの座を射止め、ほどなくチームのエースにまで成長した。

 1983年、シベンカはユーゴスラビアン・クラブ・チャンピオンシップで優勝を飾り、決勝点となるフリースローを決めたペトロビッチは一躍クロアチアの国民的英雄となった(翌日、レフェリングに不正行為が発覚したことにより再試合を要求されたが、シベンカ側は拒否。そのためタイトルを剥奪されている)。同年ナショナルチームにも選出され、“クロアチアにペトロビッチあり”とユーゴスラビア中にその名を知らしめた。
 
 シベンカで2年間プレーした後、1年の兵役を経て首都ザグレブにある名門クラブ、シボナに入団。そこでもペトロビッチの勢いは止まることがなく、1年目からチームをヨーロピアン・チャンピオンへと導き、欧州のベストプレーヤーにも選ばれた。このシーズン、彼はユーゴスラビア・リーグで平均43.3点をマーク、1試合112得点(フィールドゴール40/60)という、にわかに信じがたい大記録も打ち立てている。

 シボナでも数多くのタイトルを獲得したペトロビッチは、4年後、次なるステップに進んだ。シボナ時代のライバルチーム、ヨーロッパにおける名門中の名門であるスペインのレアル・マドリーが、彼の選んだクラブだった。

 ペトロビッチのプレーはそこでも冴え渡り、すぐさまスパニッシュ・カップとヨーロピアン・カップのタイトルをクラブにもたらす。この頃彼に付いたニックネームが“アマデウス(天才音楽家モーツァルトの名前)”。人々はペトロビッチに対して、“ヨーロッパ史上最高のバスケットボールプレーヤー”との賛辞を惜しまなかった。

 レアル・マドリーで充足した1シーズンを過ごしたペトロビッチは、新たなステージに進む決意をする。ヨーロッパの頂点に到達した彼が目指す先は、世界の頂点――大西洋を隔てた隣の大陸にある世界最高峰のバスケットボールリーグ、NBAだった。
 

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