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NBA

【NBAスター悲話】ドラゼン・ペトロビッチ――クロアチアが生んだ不世出の天才バスケットボールプレーヤー【前編】

大井成義

2019.12.06

 ペトロビッチとアメリカのバスケットボール界は、それまでまったく無縁なものでもなかった。19歳の時にノートルダム大からスカウトを受けており、1986年にはブレイザーズからドラフト3巡目60位で指名されている。しかし、社会主義国家クロアチアの厳しい政治的規制と、所属チームとの複雑な契約がネックとなり、渡米は見送られ続けていた。

 1989年、ペトロビッチとブレイザーズはレアル・マドリーとの契約を解消すべく懸案を法廷に持ち込み、残り契約3年分150万ドルを支払うという条件で、晴れて自由の身を獲得した。かくしてペトロビッチは、期待と不安に胸を膨らませてNBAの世界に飛び込んでいったのだった。

 ところがその頃のブレイザーズには、同じシューティングガードのポジションにクライド・ドレクスラーというオールスター選手が君臨しており、ペトロビッチは控えに甘んじるほかなかった。1試合平均の出場時間は12.6分、得点7.6点。エリート街道を邁進してきたペトロビッチにとって、とても満足できる数字ではなかった。順風満帆だったバスケットボール人生に訪れた初めての壁。旧ユーゴスラビア代表としてソウル・オリンピックで一緒に銀メダルを獲得し、同じ年に海を渡った親友ブラデ・ディバッツと、毎夜電話で励ましあう日々が続いた。
 
 転機が訪れたのは2年目のシーズン途中だった。ネッツがペトロビッチ獲得に乗り出し、紆余曲折を経て三角トレードが成立。皮肉なことに、ブレイザーズの中でペトロビッチの能力を認めていたのは唯一ドレスクラ―だけで、そのニュースを聞いた彼は「チームはオールスター選手を手放してしまった……」と漏らしたという。

■ジョーダンにもまったくひるまない恐ろしいまでの自負心

 新天地でペトロビッチは完全に息を吹き返した。翌シーズンには全試合にスターターとして出場し、平均出場時間36.9分、20.6点、フィールドゴール成功率50.8%という好成績をマーク。その年のドラフト2位で獲得した大型ルーキー、ケニー・アンダーソンや前年の新人王デリック・コールマンとともに、弱小チームを6年ぶりのプレーオフ進出に導いた。

 だが、その程度の結果で満足するペトロビッチではなかった。彼の飽くなき向上心は止まるところを知らず、周囲の度肝を抜くこともしばしばだった。ペトロビッチは練習の鬼と化し、まるで何かに取り憑かれているかのように練習に没頭した。チームメイトだったジェイソン・ウィリアムズは当時こう語っている。
 

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