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NBA

4世代を超えて“宝物”となった史上最高のダンカー、ヴィンス・カーターの波乱万丈のキャリア

大井成義

2020.01.05

2000年のシドニー五輪で叩き込んだ“人越えダンク”は、世界中のファンの度肝を抜いた。(C)Getty Images

2000年のシドニー五輪で叩き込んだ“人越えダンク”は、世界中のファンの度肝を抜いた。(C)Getty Images

■2000年のダンクコンテストで史上最高の一撃が炸裂

 アメリカ東南部のフロリダ州デイトナビーチに生まれたカーターが、バスケットボールで初めて遊んだのは2歳の時だった。7歳の時に両親が離婚。母と義父はともに教師で、バスケットボール以外にバレーボールや音楽にも親しみながらすくすくと育っていった。メインランド高校時代はマーチングバンドでサックス(アルト、バリトン、テナー)とドラムを担当し、バレー部ではキャプテンを務めている。

 高校最終学年時にはマクドナルド・オールアメリカンに選ばれ、その名を全米へ轟かせた。強豪ノースカロライナ大に進学すると、2年連続でACC(アトランティック・コースト・カンファレンス)トーナメントの優勝と、NCAAトーナメントのファイナル4進出の立役者となり、大学3年を終えたところでプロ入りを表明する。

 1998年のNBAドラフト、カーターは1巡目5位でウォリアーズから指名を受けた。するとすぐさま、直前にラプターズから指名されていた、大学のチームメイトであり親友のアントワン・ジェイミソンとのトレードが発表される。エクスパンションチームの常として、集客と得点力不足に悩んでいたラプターズにとって、派手なプレーで客を惹き寄せ、1人で局面を打開し得点を量産するカーターを獲得できたことは、これ以上ない幸運だった。
 
 カーターの加入により、創設後3シーズンに渡りディビジョン最下位に沈んでいたチームの風向きは一気に変わった。入団2年目から3年連続でプレーオフ進出を果たすと、1年先にラプターズへ入団していた従兄弟のトレイシー・マッグレディとの強烈なワンツーパンチを武器に、若き恐竜軍団はリーグに旋風を巻き起こした。マッグレディが2000年にFAとなりチームを離れていなかったら、ラプターズは20年前に優勝を果たしていたかもしれない、そう考える識者もいるほどである。

 カーターを語る上で決して欠かすことのできない世紀の瞬間が訪れたのは、2000年のスラムダンク・コンテストでのことだった。前年はロックアウトのためオールスターが開催されず、この年初参加となったカーターは、通常の試合中から超絶ダンクを連発していたこともあり、ファンの期待値はMAXまで高まっていた。

 そして、世界中の注目を一身に浴びるなか、スラムダンク・コンテスト史上最高の一撃がぶちかまされる。リバースの360度ウインドミルダンク。1988年にマイケル・ジョーダンが決めたフリースローラインダンクや、2016年にアーロン・ゴードンが成功させた両足下を通しての一発と並び、コンテスト史に燦然と輝く金字塔と言えよう。

 他にも、同年夏のシドニー・オリンピックで見せた、身長218㎝のフランス人センター、フレデリック・ワイスを飛び越えてのダンクも伝説の1本だ。
 

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