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NBA

スーパースターと名コーチ製造工場、ノースカロライナ大。しかしジョーダン入学以前はエリート校には程遠く【名門カレッジ史|前編】

出野哲也

2020.01.07

名将として名高いスミスだが、就任当初は全米制覇に届かない日々が続いた。(C)Getty Images

名将として名高いスミスだが、就任当初は全米制覇に届かない日々が続いた。(C)Getty Images

 マグワイアに代わり、アシスタントからHCに昇格したのが、史上屈指の名将ディーン・スミスだ。

 スミスは選手たちに徹底してチーム優先の姿勢を浸透させ、個人プレーに走ったり、感情を表に出したりすることを許さなかった。その一方で、スタープレーヤーであろうと控え選手であろうと分け隔てなく接し、学業も疎かにさせず、バスケットボール選手としてよりも1人の人間として成長させることに砕身。まだアメリカ南部では黒人差別が激しかった時代、率先してその壁を打ち破ろうとしたことも評価され、やがてノースカロライナ州において、スミスは州知事や上院議員以上の重要人物とまで言われるようになる。
 
 しかし就任後最初の数年間は、リー・シェイファー、ビリー・カニングハム(ともに元フィラデルフィア・セブンティシクサーズ)ら、後にNBAで活躍する選手を擁しながらも結果を出せず。シェイファーはキャリア2年目でオールスターに選ばれ、63年のプレーオフでは45得点をマークした有望株だったが、わずか3年で引退してビジネスマンに転身してしまった。

 カニングハムは〝カンガルー・キッド〞と呼ばれた跳躍力を売り物にシクサーズで活躍。69年から3年連続でオールNBA1stチーム入りを果たし、70年には平均26.1点をあげていたが、キャリア最盛期の72年にライバルリーグのABAへ移り、NBA関係者にショックを与えた。引退後の77年には34歳の若さで古巣シクサーズのHCとなり、83年にジュリアス・アービングやモーゼス・マローンを率いてチームを優勝に導いている。

 スミスの門下生からは、カニングハム以外にも数々の名コーチが生まれた。ダグ・モーはNBAからの2度のドラフト指名を拒否し、ヨーロッパとABAで活躍したのち、76年にサンアントニオ・スパーズのHCに就任。80年代は超攻撃的なバスケットでデンバー・ナゲッツを強豪に押し上げ、88年には最優秀HC賞に輝いた。ナゲッツでは通算432勝をマークしており、この数字は同球団でモーの永久欠番として扱われている。
 
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