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NBA

スーパースターと名コーチ製造工場、ノースカロライナ大。しかしジョーダン入学以前はエリート校には程遠く【名門カレッジ史|前編】

出野哲也

2020.01.07

ブラウン(右)、カール(左)はともに名コーチとして名を馳せた。(C)Getty Images

ブラウン(右)、カール(左)はともに名コーチとして名を馳せた。(C)Getty Images

 ラリー・ブラウンは63年のドラフト7巡目でボルティモア・ブレッツ(現ワシントン・ウィザーズ)に指名されたが入団せず、実業団のリーグに加わって64年の東京五輪に出場。その後UNCでアシスタントコーチとなったが、67年にABAでプロに転向し、1年目から3年連続でアシスト王に輝いた。

 指導者としては88年にカンザス大、2004年はデトロイト・ピストンズで優勝を経験。NCAAトーナメントとNBAファイナルの両方を制した史上唯一のコーチとなっている。

 NBAでの通算1098勝は史上8位。師匠であるスミス譲りの規律と基本を重んじたスタイルで、下位に低迷していた球団をエリートチームに育てあげた。00年のシドニー五輪にはアシスタントコーチとして参加し、選手とコーチの両方で金メダルの栄誉に浴している。
 
 ジョージ・カールも選手としては大成しなかったが、84年にクリーブランド・キャバリアーズの指揮官となって以降、6球団のHCを歴任。96年にシアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)を率いてファイナルに進出したほか、02年の世界選手権ではアメリカ代表の指揮官も務めた。27年間のコーチ生活で積み上げた1175勝は、史上6位の大記録だ。

 また、スミスが指揮した最初のチームで主将だったドニー・ウォルシュは、短期間ナゲッツのコーチを務めたのち、GMとしてインディアナ・ペイサーズを強豪に仕立て上げた。

 スミス体制で初めてトーナメントに出場したのは67年で、この時は準決勝まで進出。翌68年は決勝戦でルー・アルシンダー(のちのカリーム・アブドゥル・ジャバー/元ロサンゼルス・レイカーズほか)率いるUCLAに大敗、69年も3年連続となるファイナル4へ進んだが、頂点には届かなかった。

 当時の主軸は、UNCで奨学金を得た最初の黒人選手チャーリー・スコット(元フェニックス・サンズほか)。プロでも攻撃的のPGとして、72年に平均34.6点をあげABAの得点王に輝いている。
 
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