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バード&マクヘイル&パリッシュの”オリジナル・ビッグ3”は失敗の副産物だった?策士アワーバックによって案じられた”奸計”【NBAドラフト史:1980年】

大井成義

2020.03.02

アワーバックの勧誘虚しく大学に残ったサンプソン。彼の決断がのちのリーグに大きな影響を与えた。(C)Getty Images

アワーバックの勧誘虚しく大学に残ったサンプソン。彼の決断がのちのリーグに大きな影響を与えた。(C)Getty Images

 その頃セルティックスの全権を握っていたのが、名伯楽にして稀代の策士、レッド・アワーバックGM。彼にとってその2人は興味の対象外であり、ほかに喉から手が出るほど欲しいと願う選手がいた。バージニア大のビッグマン、ラルフ・サンプソンである。

 すでに全米にその名を轟かせていたが、まだ1年を終えたばかり。特例を除いてアーリーエントリーができない時代であり、ほぼすべてのチームはノーマーク状態だった。そんななか、アワーバックだけは目を光らせ、サンプソンの獲得を虎視眈々と狙っていた。アワーバックはその1年前にも、100万ドルの現金が詰まったアタッシュケースを手に、高校を卒業したばかりのサンプソン宅を尋ねている。

 サンプソンは後に“史上最高のカレッジプレーヤー”と謳われ、長いNBAドラフト史のなかでも特に注目を浴び、将来を嘱望された選手である。彼の存在は80年代前半のNBAドラフトに繰り返し影響を及ぼすのだが、この年もまた、サンプソンが下した決断はドラフトの結果のみならず、後のNBAの勢力図に大きな変化をもたらすことになる。
 
 アワーバックはドラフトの2か月前からサンプソンと接触を図り、あらゆる手を使って勧誘に励んだ。当時のドラフトにはアーリーエントリーのデッドラインはなく、アンダークラスマンは家庭が困窮状態であるとを書類で証明することさえできれば、審査によって“ハードシップ・ルール”が特別に適用され、いつでもドラフトにエントリーすることができた。

 また、ノーマークのサンプソンに1位指名権を使う必要もなかったが、“名門セルティックスの栄えある1位指名”という名誉も、勧誘に際し重要なポイントであるとアワーバックは考えた。

 当初は迷いを見せていたサンプソンだったが、アワーバックのあまりに執拗な勧誘に疲れ果て、終いには嫌気が差してきたこともあり、最終的に大学に残る決心をする。努力の甲斐虚しく無残にもふられたアワーバックは、怒り心頭に発し、サンプソンと彼の家族に対する嫌味をメディアにぶちまけている。
 
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