1971-72シーズンからは、UCLAで名将ジョン・ウッデンの右腕として才覚を発揮していたデニー・クラムがHCに就任。冷静沈着なコーチングスタイルが売りの新指揮官に導かれ、チームは黄金期に突入する。
1972年はオールアメリカンに選ばれたジム・プライスを中心に、13年ぶりとなるファイナル4に進出。プライスは同年にNBA入りし、ミルウォーキー・バックス時代の1975年にはオールスターにも出場した。
1975年にも再びファイナル4に駒を進めたが、1972年と同様に準決勝で敗退。チームの中核を担ったジュニア・ブリッジマンは、同年にバックスでNBAデビューし、1977年から9シーズン連続で平均2桁得点を稼ぐ活躍を見せた。キャリア12年で積み上げた通算1万1517得点は、ルイビル大OBのなかでグリフィスに次ぐ数字となっている。
そのグリフィスを擁した1980年、ルイビル大は決勝でUCLAを破り、初の全米制覇を達成。彼らが勝利の儀式として披露していたハイファイブは、この優勝を機に知名度が全国区となり、喜びの表現として他のスポーツにも急速に広まっていった。
トーナメントMVPを受賞したグリフィスは、在学4年間で学校記録となる通算2333点をマークし、同年のドラフト2位でジャズに入団する。迫力満点のダンクを武器に、キャリア5年目までは平均21.0点とスコアラーとして活躍。しかし足の故障で1985-86シーズンを全休し、以降は全盛期の輝きを取り戻すことができなかった。
同じく1980年の優勝メンバーだったスクーター&ロドニーのマクレー兄弟は、1982、83年のファイナル4進出時も主力としてプレー。揃ってNBA入りを果たすも、弟ロドニーがヒューストン・ロケッツの先発スモールフォワードに定着した一方で、兄スクーターは26歳の若さでリーグを去っている。
2度目の優勝を果たした1986年は、パービス・エリソンがデューク大との決勝戦で25得点と爆発。この活躍もあり、1年生としては42年ぶり、史上2人目となるトーナメントMVPに選ばれた。
1972年はオールアメリカンに選ばれたジム・プライスを中心に、13年ぶりとなるファイナル4に進出。プライスは同年にNBA入りし、ミルウォーキー・バックス時代の1975年にはオールスターにも出場した。
1975年にも再びファイナル4に駒を進めたが、1972年と同様に準決勝で敗退。チームの中核を担ったジュニア・ブリッジマンは、同年にバックスでNBAデビューし、1977年から9シーズン連続で平均2桁得点を稼ぐ活躍を見せた。キャリア12年で積み上げた通算1万1517得点は、ルイビル大OBのなかでグリフィスに次ぐ数字となっている。
そのグリフィスを擁した1980年、ルイビル大は決勝でUCLAを破り、初の全米制覇を達成。彼らが勝利の儀式として披露していたハイファイブは、この優勝を機に知名度が全国区となり、喜びの表現として他のスポーツにも急速に広まっていった。
トーナメントMVPを受賞したグリフィスは、在学4年間で学校記録となる通算2333点をマークし、同年のドラフト2位でジャズに入団する。迫力満点のダンクを武器に、キャリア5年目までは平均21.0点とスコアラーとして活躍。しかし足の故障で1985-86シーズンを全休し、以降は全盛期の輝きを取り戻すことができなかった。
同じく1980年の優勝メンバーだったスクーター&ロドニーのマクレー兄弟は、1982、83年のファイナル4進出時も主力としてプレー。揃ってNBA入りを果たすも、弟ロドニーがヒューストン・ロケッツの先発スモールフォワードに定着した一方で、兄スクーターは26歳の若さでリーグを去っている。
2度目の優勝を果たした1986年は、パービス・エリソンがデューク大との決勝戦で25得点と爆発。この活躍もあり、1年生としては42年ぶり、史上2人目となるトーナメントMVPに選ばれた。