パウ(当時レイカーズ)とマルク(当時メンフィス・グリズリーズ)のガソル兄弟に加え、ルディ・フェルナンデス(当時デンバー・ナゲッツ)にファン・カルロス・ナバーロ(元グリズリーズ)、さらには帰化選手のサージ・イバカ(当時サンダー)まで加わっていたスペインは、やはり簡単には勝てない相手だった。
第3クォーター終了時でアメリカのリードはたったの1点。だが、残り3分20秒からレブロンがダンクと3ポイント、1分を切ってポールがレイアップを決め、点差を2桁へ広げた時点で勝負は決する。最終スコアは107-100。デュラントの30得点は、決勝戦におけるアメリカ代表の最多得点になった。
3位決定戦はアンドレイ・キリレンコ(当時ウルブズ)を擁するロシアがアルゼンチンを下し、金メダルに輝いた旧ソビエト連邦時代の1988 年ソウル大会以来、実に24年ぶりとなるメダルを獲得。開催国のイギリスは64年前のロンドン大会以来の出場で、同年のNBAオールスターにも出場したシカゴ・ブルズのルオル・デンも参戦。結果は1勝4敗、中国に勝利したのみの9位に終わったが、スペイン戦では1点差の好勝負を演じ喝采を浴びた。
■大会前、チームへの誇りと愛着から「ドリームチームに勝てる」と宣言したコビー
大会MVPを選ぶなら、平均19.5点をあげオフェンスを牽引したデュラントだろう。レブロンのオールラウンドな働きも、目を見張るものがあった。だが、チーム最年長であるコビーの存在感も計り知れないほど大きかった。
実は大会直前、コビーは記者会見の席で「このメンバーなら(1992年の)ドリームチームに勝てる」と宣言。「タフな戦いにはなるだろう。でも俺たちが絶対に倒せない相手ではないはずさ」とレブロンも同調したが、マイケル・ジョーダン(元ブルズほか)やチャールズ・バークレー(元フェニックス・サンズほか)、ラリー・バード(元ボストン・セルティックス)ら、初代ドリームチーマーからは猛反発に遭った。
さらには当時のバラク・オバマ大統領まで「私はブルズのファンだから、初代ドリームチームの肩を持つ」と参戦したほど、この論争はバスケファン、そしてスポーツファンの間で大きな話題になった。
第3クォーター終了時でアメリカのリードはたったの1点。だが、残り3分20秒からレブロンがダンクと3ポイント、1分を切ってポールがレイアップを決め、点差を2桁へ広げた時点で勝負は決する。最終スコアは107-100。デュラントの30得点は、決勝戦におけるアメリカ代表の最多得点になった。
3位決定戦はアンドレイ・キリレンコ(当時ウルブズ)を擁するロシアがアルゼンチンを下し、金メダルに輝いた旧ソビエト連邦時代の1988 年ソウル大会以来、実に24年ぶりとなるメダルを獲得。開催国のイギリスは64年前のロンドン大会以来の出場で、同年のNBAオールスターにも出場したシカゴ・ブルズのルオル・デンも参戦。結果は1勝4敗、中国に勝利したのみの9位に終わったが、スペイン戦では1点差の好勝負を演じ喝采を浴びた。
■大会前、チームへの誇りと愛着から「ドリームチームに勝てる」と宣言したコビー
大会MVPを選ぶなら、平均19.5点をあげオフェンスを牽引したデュラントだろう。レブロンのオールラウンドな働きも、目を見張るものがあった。だが、チーム最年長であるコビーの存在感も計り知れないほど大きかった。
実は大会直前、コビーは記者会見の席で「このメンバーなら(1992年の)ドリームチームに勝てる」と宣言。「タフな戦いにはなるだろう。でも俺たちが絶対に倒せない相手ではないはずさ」とレブロンも同調したが、マイケル・ジョーダン(元ブルズほか)やチャールズ・バークレー(元フェニックス・サンズほか)、ラリー・バード(元ボストン・セルティックス)ら、初代ドリームチーマーからは猛反発に遭った。
さらには当時のバラク・オバマ大統領まで「私はブルズのファンだから、初代ドリームチームの肩を持つ」と参戦したほど、この論争はバスケファン、そしてスポーツファンの間で大きな話題になった。
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