この頃、カレッジではUCLAが圧倒的な強さを誇っていた。前人未到の7連覇を達成すると、1974年も“史上最高の白人センター”ビル・ウォルトンを擁し、8連覇が確実視されていた。NCAAトーナメントを順調に勝ち進み、迎えたファイナル4。準決勝でUCLAの前に立ちはだかったのは、トンプソン率いるノースカロライナ州大だった。
2度のオーバータイムという大激戦の末、勝利をもぎ取ったのはノースカロライナ州大。立役者はもちろんトンプソンで、20㎝の身長差をものともせずウォルトンのシュートを見事ブロック、最終局面でリバウンドをウォルトンに競り勝ち、その後決勝点となるジャンパーを決めたのもトンプソンだった。
ファイナルではマーケット大を難なく下し、ノースカロライナ州大に初のNCAAタイトルの栄冠をもたらすと同時に、自身もMVPを獲得した。その翌シーズンには主要個人アウォードを総なめにし、また3年連続でオールアメリカンに選ばれるなど、大学時代に受賞したメジャーな個人賞の数は40を優に超えている。
■23歳にして手にした「世界一リッチなアスリート」の称号
順風満帆な大学生活を終えたあと、トンプソンを待っていたのはプロの熾烈な獲得競争だった。当時はNBA、ABAの2つのプロリーグが存在し、互いに鎬を削っていた。NBAからはアトランタ・ホークスが、ABAからはバージニア・スクワイヤーズがそれぞれ1位で指名。それまで1位指名選手がABAを選択したケースはなかったが、トンプソンが選んだのはドクターJやジョージ“アイスマン”ガービンなど、個性的かつ優秀なタレントが集まり、派手でエキサイティングなプレーを売り物にしているABAの方だった。
1975年、トンプソンは満を持してプロの世界に飛び込んでいった。スクワイヤーズとのトレード権を持っていたデンバー・ナゲッツが1対5の超大型トレードを敢行、トンプソンはナゲッツの一員としてプロ生活をスタートさせる。その時結んだ5年250万ドルという契約は、ルーキーとしてはすべてのプロスポーツのなかで過去最高の高額契約だった。田舎町の赤土でプレーして育った若者は、一夜にして億万長者となった。
2度のオーバータイムという大激戦の末、勝利をもぎ取ったのはノースカロライナ州大。立役者はもちろんトンプソンで、20㎝の身長差をものともせずウォルトンのシュートを見事ブロック、最終局面でリバウンドをウォルトンに競り勝ち、その後決勝点となるジャンパーを決めたのもトンプソンだった。
ファイナルではマーケット大を難なく下し、ノースカロライナ州大に初のNCAAタイトルの栄冠をもたらすと同時に、自身もMVPを獲得した。その翌シーズンには主要個人アウォードを総なめにし、また3年連続でオールアメリカンに選ばれるなど、大学時代に受賞したメジャーな個人賞の数は40を優に超えている。
■23歳にして手にした「世界一リッチなアスリート」の称号
順風満帆な大学生活を終えたあと、トンプソンを待っていたのはプロの熾烈な獲得競争だった。当時はNBA、ABAの2つのプロリーグが存在し、互いに鎬を削っていた。NBAからはアトランタ・ホークスが、ABAからはバージニア・スクワイヤーズがそれぞれ1位で指名。それまで1位指名選手がABAを選択したケースはなかったが、トンプソンが選んだのはドクターJやジョージ“アイスマン”ガービンなど、個性的かつ優秀なタレントが集まり、派手でエキサイティングなプレーを売り物にしているABAの方だった。
1975年、トンプソンは満を持してプロの世界に飛び込んでいった。スクワイヤーズとのトレード権を持っていたデンバー・ナゲッツが1対5の超大型トレードを敢行、トンプソンはナゲッツの一員としてプロ生活をスタートさせる。その時結んだ5年250万ドルという契約は、ルーキーとしてはすべてのプロスポーツのなかで過去最高の高額契約だった。田舎町の赤土でプレーして育った若者は、一夜にして億万長者となった。