少年の生活は徹底してバスケットボールを中心に回っていた。マラビッチは父の予想をはるかに上回るスピードで上達していき、与えられた基礎的な練習以外に、より難易度の高い練習にも自ら励んだ。「父は僕をバスケットボールのアンドロイドに仕立て上げたんだ」。後に彼はそう語っている。
マラビッチは中学生の段階で高校生のチームに交じってプレーし、レギュラーを獲得した。その頃にはすでに“ピストル”というニックネームで呼ばれ、その名は地域一帯に轟いていた。“ピストル”の由来は、名前の韻を踏んでいることもあるが、主にそのシューティングフォームから付けられたという。まだ身体が小さく非力だったためボールを軽々と扱えず、腰の脇からボールを持ち上げる形でシュートを打っていた。その様子が、ガンマンが腰から拳銃を撃つ動作に似ていたことから付けられたのだった。
大学進学を控えた頃、ノースカロライナ州大でHCを務めていたプレスの元に、ルイジアナ州大とNBAのボルティモア・ブレッツから仕事のオファーが舞い込んできた。マラビッチ親子は協議の結果、当時アメフトでは名を馳せていたが、バスケットボールでは弱小校だったルイジアナ州大に親子で乗り込む決意をする。
カレッジでマラビッチは国民的ヒーローとなった。NCAA規定で1年時は正チームでプレーできなかったものの、新入生チームでシーズン平均43.6点をマーク。その後の3年間も平均43.8点、44.2点、44.5点という驚異的なハイスコアを記録し、カレッジ・バスケットボール史に燦然と輝く数々の金字塔を打ち立てた。
通算得点(3667)、通算平均得点(44.2)をはじめ、最多フィールドゴール成功数や試投数、50点を越えた試合数など、マラビッチによって塗り替えられた得点部門の記録の多くは、それから半世紀たった今なお破られていない。マラビッチが保持する大記録の数々は、2位との大差を考えると、今後も決して破られることはないだろう。
それらすべてが3ポイントシュートのない時代に記録されたのだから、驚き以外の何物でもない。当時のルイジアナ州大HC、デイル・ブラウンが大学時代のマラビッチのシュート位置を記録しており、もし3ポイントがあったら平均得点は57点まで跳ね上がる計算になるという。そして1試合平均の3ポイント成功数は、なんと13本。大学時代やプロ全盛期に3ポイントがあったら、きっととんでもない数字を叩き出していたに違いない。
そんなマラビッチの人間離れしたプレー見たさにアリーナは常時満員となり、その状況はホームのみならずアウェーでも同じだった。身長196㎝、体重79㎏のやせっぽちの体躯にボサボサの長髪をなびかせ、トレードマークとなったヨレヨレの灰色の靴下をルーズに履き、白人ながら黒人以上にアクロバティックでド派手なプレーを繰り広げるマラビッチは、まさしく時代の申し子だった。(後編に続く)
文●大井成義
※『ダンクシュート』2003年4月号掲載原稿に加筆・修正。
マラビッチは中学生の段階で高校生のチームに交じってプレーし、レギュラーを獲得した。その頃にはすでに“ピストル”というニックネームで呼ばれ、その名は地域一帯に轟いていた。“ピストル”の由来は、名前の韻を踏んでいることもあるが、主にそのシューティングフォームから付けられたという。まだ身体が小さく非力だったためボールを軽々と扱えず、腰の脇からボールを持ち上げる形でシュートを打っていた。その様子が、ガンマンが腰から拳銃を撃つ動作に似ていたことから付けられたのだった。
大学進学を控えた頃、ノースカロライナ州大でHCを務めていたプレスの元に、ルイジアナ州大とNBAのボルティモア・ブレッツから仕事のオファーが舞い込んできた。マラビッチ親子は協議の結果、当時アメフトでは名を馳せていたが、バスケットボールでは弱小校だったルイジアナ州大に親子で乗り込む決意をする。
カレッジでマラビッチは国民的ヒーローとなった。NCAA規定で1年時は正チームでプレーできなかったものの、新入生チームでシーズン平均43.6点をマーク。その後の3年間も平均43.8点、44.2点、44.5点という驚異的なハイスコアを記録し、カレッジ・バスケットボール史に燦然と輝く数々の金字塔を打ち立てた。
通算得点(3667)、通算平均得点(44.2)をはじめ、最多フィールドゴール成功数や試投数、50点を越えた試合数など、マラビッチによって塗り替えられた得点部門の記録の多くは、それから半世紀たった今なお破られていない。マラビッチが保持する大記録の数々は、2位との大差を考えると、今後も決して破られることはないだろう。
それらすべてが3ポイントシュートのない時代に記録されたのだから、驚き以外の何物でもない。当時のルイジアナ州大HC、デイル・ブラウンが大学時代のマラビッチのシュート位置を記録しており、もし3ポイントがあったら平均得点は57点まで跳ね上がる計算になるという。そして1試合平均の3ポイント成功数は、なんと13本。大学時代やプロ全盛期に3ポイントがあったら、きっととんでもない数字を叩き出していたに違いない。
そんなマラビッチの人間離れしたプレー見たさにアリーナは常時満員となり、その状況はホームのみならずアウェーでも同じだった。身長196㎝、体重79㎏のやせっぽちの体躯にボサボサの長髪をなびかせ、トレードマークとなったヨレヨレの灰色の靴下をルーズに履き、白人ながら黒人以上にアクロバティックでド派手なプレーを繰り広げるマラビッチは、まさしく時代の申し子だった。(後編に続く)
文●大井成義
※『ダンクシュート』2003年4月号掲載原稿に加筆・修正。