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NBA

“史上最高のカレッジプレーヤー”ラルフ・サンプソンを巡った空前絶後の獲得競争【NBAドラフト史|1983】

大井成義

2019.12.18

現在クリッパーズのHCを務めるドック・リバースも1983年ドラフト組の一員。2巡目31位指名ながら球宴に1度出場している。(C)Getty Images

現在クリッパーズのHCを務めるドック・リバースも1983年ドラフト組の一員。2巡目31位指名ながら球宴に1度出場している。(C)Getty Images

 サンプソンはロケッツと4年520万ドルという大型契約を結ぶと、1年目から期待に違わぬプレーを披露した。1年目の成績は平均21.0点、11.1リバウンド、2.4ブロック。満票での新人王受賞だった。ロケッツはこの年もタンキングを駆使し、オラジュワンの獲得に成功する。ここに、過去に例のない、ひときわ大きく身体能力の高いツインタワーが誕生した。

 迎えた3年目、サンプソンはNBAでのベストシーズンを迎える。プレーオフのカンファレンス決勝で、前年度のNBAチャンピオンであり、ウエストを4年連続で制していたマジック・ジョンソン率いるレイカーズを4勝1敗で撃破するという大アップセットを演じた。第5戦で決めたブザービーターは、キャリアのハイライトとなっている。ファイナルでは絶好調のラリー・バード擁するセルティックスに2勝4敗で敗れたものの、レイカーズとセルティックスの2強時代に終止符を打つのはロケッツだろう、そんな機運がリーグに充満しつつあった。

 デビューから4年連続でオールスターに選出され、2年目にはオールスターMVPを獲得。順風満帆なキャリアを送っていたサンプソンだったが、一方で腰とヒザに慢性の故障を抱えながらのプレーが続いていた。特に、試合中にコートの濡れた箇所で足を滑らせ、その時痛めた左ヒザのケガは深刻だった。
 
 ファイナル進出の翌シーズン、サンプソンのヒザは限界に達し、ついに手術を受けることになった。その時、彼は致命的なミスを犯す。残りシーズンはリハビリに専念すべきだったものを、チームへの貢献を最優先に考え、手術から8週間後にはコートに戻ってしまう。その後も本調子を取り戻すべくワークアウトを重ね、さらには試合で激しいプレーを続けた結果、サンプソンのヒザは2度と元へ戻らない状態にまで悪化していた。3度の手術を経ても治癒には至らず、苦悩の日々が続いた。

 ファイナル進出からわずか2年後、サンプソンの姿はロケッツになかった。1987-88シーズン途中にウォリアーズへトレード。その2年後にはキングスにトレードされ、控えを中心に1シーズン25~26試合の出場に留まった。そして迎えた1991-92シーズン、ブレッツ(現ウィザーズ)での10試合を最後に、サンプソンはNBAのコートから姿を消すことになる。その10試合の平均成績は、出場時間10.8分、2.2点、3.0リバウンドだった。
 

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