海外サッカー

マラドーナは死んでいない――“英雄”が去ってから1年。今アルゼンチンで何が起きているのか【現地発】

チヅル・デ・ガルシア

2021.12.03

数々の栄光を残し、多くの人々から愛されているマラドーナ。その存在は死してなお強まっている。(C)Albert LIGRIA

 ディエゴ・マラドーナの一周忌に際し、南米サッカー連盟は、「マラドーナ星」なるものを勝手に登録し、彼の古巣であるナポリは左足が黄金に輝く銅像をお披露目。『Amazon prime』では、遺族の了解を得ないまま製作されたドラマが公開された。

 星も銅像も「死者であること」が前提だが、今、アルゼンチンで起きている現象は、これらのオマージュとは全く無縁だ。

 よく「人は忘れられた時に死ぬ」と言われる。人が本当の意味で「死」を迎えるのは、肉体的に滅んだ時でも埋葬された時でもなく、「人々から忘れられてしまった時である」という死生観だ。

 その観点から見れば、アルゼンチンにおけるマラドーナはまだ死んでいない。それどころか、彼は母国で生命の炎を燃やし続け、逝去から1年経った今、ますます「生きた存在」と化していると言っていい。

「マラドーナは生きている」などと書くと、彼の死を悲しむあまり、私の頭がどうかしてしまったのではないかと思われるかもしれない。確かに、亡くなった直後のアルゼンチンでは、私を含むマラドニアーノ(又はマラドネアーノ=マラドーナを敬愛する者)たちがまるで家族か友人を失ったかのような強い喪失感に襲われ、その感覚を理解できない人たちから大袈裟と思われても仕方がないような状態にあった。
 
 ツイッターで「La Pelota No Se Mancha」(ラ・ペロータ・ノ・セ・マンチャ=マラドーナが引退時に残した名言で『ボールが汚れることはない』の意)という名のアカウントを立ち上げ、約8年前からマラドーナのピッチ内外での忘れ難いエピソードを語り続けるフェルナンド・ブランコは、急死の報せから1か月経った時点での哀しみの感触を巧みに綴っている。

「この痛みは妙なものだ。どこからともなくガツンとやって来て、身体の中に入り込んでくる。本当の話だ。他人の目にはマヌケな奴のように映るに違いない。突然、腑抜けになってしまうのだからね。この気持ちを理解してくれる人、救い方を知る人が傍に来てくれない限り、治癒の術はない」

 ブランコの場合、1年経った今もその痛みから解放されてはいない。マラドーナの生前と比較すると投稿の頻度も低下した。だが、逝去後大量に出現した「いいね」の数だけを競うマラドーナ関連のSNSアカウントとは異なり、アルゼンチンが生んだ英雄が残した膨大な数の逸話を語り継ぐことだけを目的とした純粋な活動はその後も多くのマラドニアーノから根強く支持され続けている。

 フォロワー6万人という数からは影響力のほどを感じないかもしれないが、その中にアルゼンチンの著名ジャーナリストたちやマラドーナの次女ジャニーナが含まれていることからもコンテンツの価値がわかる。

 ブランコによる「私が愛するのは一人の人間としてのマラドーナであり、サッカー選手としての評価はプラスアルファの要素にすぎない」との見方は、アルゼンチンのマラドニアーノたちに共通して見受けられるものだ。
 
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愛し続けられる「大衆の味方」としてのマラドーナ