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ミハイロビッチの忘れがたき日本人、冨安健洋。伊番記者が伝える闘将の語った愛弟子退団への“本音”「移籍は不可避だったのか?」

THE DIGEST編集部

2022.12.28

病魔とも闘っていた「闘将」ミハイロビッチ(左)。彼がボローニャ時代に重宝したのは、日本の若武者だった冨安(右)だった。(C)Getty Images

 数か月も病魔と闘ったのち、ローマ市内の病院でシニシャ・ミハイロビッチが亡くなった。急性骨髄性白血病だった。サッカー界随一の闘将になぜこんなことが起こってしまったのか、とても理不尽に感じている。

 彼はイタリアに熱い奇跡を残してきた。選手としてはローマ、サンプドリア、ラツィオ、そしてインテルでプレー。引退後は監督としてインテル、ボローニャ、カターニャ、フィオレンティーナ、サンプドリア、ミラン、トリノを率いた。少なくとも30年は密にカルチョと関わってきていた。だからこそ彼の死は大きな衝撃と痛みをもって迎えられたのだ。

 とりわけシニシャが一番深い絆を持っていたのが、ボローニャだろう。セルビアの闘将は監督として二度も指揮を執り、名誉市民にもなった。彼の指揮官としての能力と、何より人間性をサポーターたちはこよなく愛していた。

 そして、この北部の街でシニシャは一人の忘れがたい日本人選手と出会った。冨安健洋。イタリア人が親しみを込めて「トミー」と呼ぶ選手だ。

 彼らが初めて顔を合わせたのは2019年。ボローニャの幹部が1年以上も前から口説き、ベルギーの無名だった2部チーム(シント=トロイデン)から連れてきた長身で、細身の少年を、シニシャは興味深く見ていた。
 
 冨安の評判は非常に良く、「将来有望な若手」というスカウティングだったが、シニシャは自分の目で見なければ納得しない。まずは練習での彼の様子をじっくりと観察した。その結果、冨安に対するセルビア人指揮官の最初のコメントはこんな感じだった。

「練習熱心で、非常にクリーンで、秩序だったプレーをする。確かにこの先どんどん伸びていくだろう」

 彼の印象は的中した。冨安がボローニャに加入してから40日後、まずはコッパ・イタリアのピサ戦で先発デビューを果たすと、その後はセリエAでも主力としてプレーするようになる。ピッチ外ではとてもシャイだが、一度ピッチに足を踏み入れれば、すべてをかなぐり捨てる。誰もがこの日本人DFを愛した。それはシニシャも同じだった。

「トミーは守備のオールマイティーカード、ジョーカーだ。右サイドバックとしてもセンターバックとしてもプレーすることができる。こうした幅の広さは素晴らしい武器だ」

 実際、冨安は持ち前の多様性をプレーで実証していく。その翌年、ボローニャには故障者が続出。指揮官は左サイドとしても起用したが、冨安はそれにも好プレーで、いや最高のプレーで応えた。
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