オグリキャップがタマモクロスを破って世代交代を印象付けた昭和63年(1988年)が終わった翌年、平成の時代がやってくる。そうしたなかで「平成三強」と呼ばれたのがオグリキャップ、スーパークリーク、イナリワンの古馬3頭だ。
「芦毛の怪物」と呼ばれてアイドルホースとなったオグリキャップ。スタージョッキーに駆け上がった武豊とのコンビでスポットライトを浴びたスーパークリーク。その2頭と比べると地味な印象は免れないが、地方出身ながら芝の舞台において図抜けた闘争心でライバルに挑みかかり、ついには平成元年(1989年)にJRA賞年度代表馬の座を射止めたイナリワンは間違いなく、たぐい稀なる名馬だった。
父が名馬ミルリーフ(Mill Reef)の直仔ミルジョージ、母テイトヤシマ(父ラークスパー)という、当時の地方競馬を席巻していた血統のもとに生まれたイナリワンは、大井競馬場の調教師、福永二三雄に見出され、保手浜弘規をオーナーとして大井競馬でデビューする。
初戦は2歳の12月(1986年)。ダート1000mのこの一戦を4馬身差で勝利すると、翌年1月の出走取消を挟んで8連勝を記録。その後の重賞(ローカル重賞)では苦戦を強いられたが、4歳12月、現在の2000mではなく、3000m時代の東京大賞典を制して、レース前からオーナーの保手浜が宣言していた通り、中央へ移籍することが決定。保手浜は翌89年に春の天皇賞と宝塚記念、2つのGⅠ制覇を目標とすることを明らかにした。
美浦トレーニング・センターの鈴木清厩舎へ預託されたイナリワン。初戦はオープンのすばるステークス(京都・芝2000m)へ小島太を背に出走したが、道悪に加え、激しい気性を表に出して引っ掛かって0秒1差の4着に敗れる。続いて参戦した阪神大賞典(GⅡ、芝3000m)は折り合いに配慮して後方からレースを進めたが、他馬の斜行の影響を受けて6位入線、繰り上がりの5着(0秒3差)にとどまった。
陣営は結果を出せないイナリワンのメンタルな難しさを考慮して鞍上を他の騎手へ替える方向で検討を進めるなかで、ある若手ジョッキーにオファーが可能であることに気付く。前年の菊花賞(GⅠ)をスーパークリークで制し、馬へのあたりの柔らかさに定評のある武豊である。スーパークリークは脚部不安で春シーズンを休養にあてることが決まっており、その間ならば手綱を託すことが可能だったのだ。このオファーは受け入れられ、次走から武豊を鞍上に迎えることとなった。
「芦毛の怪物」と呼ばれてアイドルホースとなったオグリキャップ。スタージョッキーに駆け上がった武豊とのコンビでスポットライトを浴びたスーパークリーク。その2頭と比べると地味な印象は免れないが、地方出身ながら芝の舞台において図抜けた闘争心でライバルに挑みかかり、ついには平成元年(1989年)にJRA賞年度代表馬の座を射止めたイナリワンは間違いなく、たぐい稀なる名馬だった。
父が名馬ミルリーフ(Mill Reef)の直仔ミルジョージ、母テイトヤシマ(父ラークスパー)という、当時の地方競馬を席巻していた血統のもとに生まれたイナリワンは、大井競馬場の調教師、福永二三雄に見出され、保手浜弘規をオーナーとして大井競馬でデビューする。
初戦は2歳の12月(1986年)。ダート1000mのこの一戦を4馬身差で勝利すると、翌年1月の出走取消を挟んで8連勝を記録。その後の重賞(ローカル重賞)では苦戦を強いられたが、4歳12月、現在の2000mではなく、3000m時代の東京大賞典を制して、レース前からオーナーの保手浜が宣言していた通り、中央へ移籍することが決定。保手浜は翌89年に春の天皇賞と宝塚記念、2つのGⅠ制覇を目標とすることを明らかにした。
美浦トレーニング・センターの鈴木清厩舎へ預託されたイナリワン。初戦はオープンのすばるステークス(京都・芝2000m)へ小島太を背に出走したが、道悪に加え、激しい気性を表に出して引っ掛かって0秒1差の4着に敗れる。続いて参戦した阪神大賞典(GⅡ、芝3000m)は折り合いに配慮して後方からレースを進めたが、他馬の斜行の影響を受けて6位入線、繰り上がりの5着(0秒3差)にとどまった。
陣営は結果を出せないイナリワンのメンタルな難しさを考慮して鞍上を他の騎手へ替える方向で検討を進めるなかで、ある若手ジョッキーにオファーが可能であることに気付く。前年の菊花賞(GⅠ)をスーパークリークで制し、馬へのあたりの柔らかさに定評のある武豊である。スーパークリークは脚部不安で春シーズンを休養にあてることが決まっており、その間ならば手綱を託すことが可能だったのだ。このオファーは受け入れられ、次走から武豊を鞍上に迎えることとなった。




