1990年代から2000年代初頭、日本では現在を上回るほどの“格闘技ブーム”があった。リードしたのは、立ち技イベント「K-1」。その個性豊かなファイターたちの魅力を振り返る。
―――◆―――◆―――
90年代を彩ったヘビー級に加え、21世紀に入ってからのK-1は中量級も柱になった。2002年にスタートしたK-1 WORLD MAXである。
70kgリミットの選手たちの闘い、そして個性はすこぶる新鮮だった。そのなかでも主役級だったのは魔裟斗であり、彼の初期のライバルで“コヒ”こと小比類巻貴之でもあった。第1回日本トーナメントの決勝戦で両雄は対戦するのだが、このとき判定決着(0-3)で敗れた小比類巻が発した「もう1回やって、ぶっ殺します」という言葉は勝敗以上に話題を集めた。
“陽”の魔裟斗に対し、小比類巻は“陰”――。そのコントラストもライバル関係をより興味深いものにした。両者のストーリーは、K-1以前から始まっていた。初対戦の舞台は97年の全日本キックボクシング連盟の興行。ともにデビュー2戦目だったが、上位陣の試合がキャンセルとなったために繰り上がりでメインに。どちらも将来のスター候補として注目を浴びるなかでのマッチアップで勝ったのは小比類巻だった。
2000年にはK-1 WORLD MAXの前身となる『J・MAX』が開催。魔裟斗がムエタイ王者にもなったムラッド・サリ(フランス)をKOすると、小比類巻もニール・ウッズ(英国)を下して世界タイトルを奪取。そして先述のトーナメント決勝での2度目の対戦へとつながっていった。魔裟斗にとっては、小比類巻からの勝利がスター街道を歩むキッカケとなったと言える。
ただ、パンチャータイプの魔裟斗に対し、空手出身の小比類巻はヒザ蹴りをはじめとした蹴り技を得意とした。闘い方によりセンスを感じたのは、むしろ後者の方だったと言ってもいい。それほど彼の多彩さは当時のK-1で際立っていた。
また、小比類巻は伝説的な指導者・黒崎健時の黒崎道場に弟子入り。自ら理不尽とも言える厳しい環境に飛び込んだ。魔裟斗は「女にモテたい」と公言していたが、女性人気も高かった小比類巻は「俺は男に人気のある選手になりたい」と発言。そうした格闘技への姿勢から、いつしか“ミスター・ストイック”というキャッチフレーズで愛されるようになった。
―――◆―――◆―――
90年代を彩ったヘビー級に加え、21世紀に入ってからのK-1は中量級も柱になった。2002年にスタートしたK-1 WORLD MAXである。
70kgリミットの選手たちの闘い、そして個性はすこぶる新鮮だった。そのなかでも主役級だったのは魔裟斗であり、彼の初期のライバルで“コヒ”こと小比類巻貴之でもあった。第1回日本トーナメントの決勝戦で両雄は対戦するのだが、このとき判定決着(0-3)で敗れた小比類巻が発した「もう1回やって、ぶっ殺します」という言葉は勝敗以上に話題を集めた。
“陽”の魔裟斗に対し、小比類巻は“陰”――。そのコントラストもライバル関係をより興味深いものにした。両者のストーリーは、K-1以前から始まっていた。初対戦の舞台は97年の全日本キックボクシング連盟の興行。ともにデビュー2戦目だったが、上位陣の試合がキャンセルとなったために繰り上がりでメインに。どちらも将来のスター候補として注目を浴びるなかでのマッチアップで勝ったのは小比類巻だった。
2000年にはK-1 WORLD MAXの前身となる『J・MAX』が開催。魔裟斗がムエタイ王者にもなったムラッド・サリ(フランス)をKOすると、小比類巻もニール・ウッズ(英国)を下して世界タイトルを奪取。そして先述のトーナメント決勝での2度目の対戦へとつながっていった。魔裟斗にとっては、小比類巻からの勝利がスター街道を歩むキッカケとなったと言える。
ただ、パンチャータイプの魔裟斗に対し、空手出身の小比類巻はヒザ蹴りをはじめとした蹴り技を得意とした。闘い方によりセンスを感じたのは、むしろ後者の方だったと言ってもいい。それほど彼の多彩さは当時のK-1で際立っていた。
また、小比類巻は伝説的な指導者・黒崎健時の黒崎道場に弟子入り。自ら理不尽とも言える厳しい環境に飛び込んだ。魔裟斗は「女にモテたい」と公言していたが、女性人気も高かった小比類巻は「俺は男に人気のある選手になりたい」と発言。そうした格闘技への姿勢から、いつしか“ミスター・ストイック”というキャッチフレーズで愛されるようになった。