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柴田政人の執念が乗り移ったウイニングチケットの戴冠。悲願のダービー騎手の称号を祝する「大マサト・コール」【日本ダービー列伝/後編】

三好達彦

2023.05.26

7番ビワハヤヒデの猛追を抑え、10番のウイニングチケットがダービーを手にした。写真:産経新聞社

 1993年4月18日、快晴の中山でクラシック一冠目の皐月賞(GⅠ)を迎えた。1番人気はオッズ2.0倍でウイニングチケットとなり、2番人気は3.5倍のビワハヤヒデ。ナリタタイシンは弥生賞(GⅡ)でウイニングチケットに完敗を喫したことが影響し、3番人気にはなったもののオッズは9.2倍と、上位2頭とは支持率で明確な差を付けられた。

 しかし、ファンはナリタタイシンのポテンシャルを、また武豊の才能を甘く見過ぎていた。1000mの通過ラップが60秒5というスローペースのなか、ビワハヤヒデはソツなく5~6番手の外目に付け、ウイニングチケットは中団の10~11番手付近を追走。ナリタタイシンは文字通りの最後方、18番手で息を潜めていた。

 そして迎えた直線。ビワハヤヒデと、その直後に付けていたウイニングチケットがラストスパートに入るが、ウイニングチケットの伸びが鈍い。一方、逃げるアンバーライオンを捉えて先頭に躍り出たビワハヤヒデが懸命にゴールを目指すが、そこへ外から一気に突っ込んできたのがナリタタイシン。ゴール寸前でビワハヤヒデを僅かに交わし、クビ差で勝利を収めた。まるでゴールから逆算してレースを進めたような「ユタカ・マジック」が炸裂した瞬間だった。

 ウイニングチケットは5位で入線したが、3位で入線したガレオンが進路妨害で8着に降着になったため、繰り上がりの4着となった。
 
 レース後、早めにウイニングチケットを先団へ押し上げた柴田の騎乗に対し、マスコミやファンから「弥生賞のような乗り方(後方一気)なら勝てたのはないか」という批判的な声も上がったが、柴田は反論をグッとのみ込んで、感情を表には出さなかった。それは「ウイニングチケットの能力を一番よく分かっているのは自分だ」という強い信念が皐月賞の敗戦を経ても、全く揺るがなかったからである。

 日本ダービーが近づくにつれて、東西のトレーニングセンターは異様なまでの熱気と緊張感に包まれるようになる。出走馬の関係者は図らずもピリピリとしたムードを漂わせるようになり、取材する記者も勢い熱を帯びる。

 そんななか、ダービーの当該週に柴田からマスコミに対して一つの要望が伝えられた。「今週だけ、取材は勘弁してもらえないか」というのがその内容だった。

 柴田は取材に対して、とりわけ真摯に答える騎手だと知られていた。勝負の世界に生きるものが、そのときの気分によって取材に対する態度が変わることは避けがたい部分があるのは程度の問題はあれ、仕方ないことだと筆者は考えている。しかし彼は、実績を積み重ねても尊大になることなく、勝っても負けても時間が許す限り取材に対応することで記者から絶大な信頼を得ていた。

 さらに言えば、柴田を嫌いな人を探すほうが難しいほどだった。その柴田が取材の自粛を望むこと自体が、今度のダービーに懸ける思いの強さを表しているとマスコミには自然と伝わり、一部の不調法なものを除いて、静かに彼を見守った。

 騎手なら誰しも日本ダービーを勝ちたいと思うのは当然のことだろう。有力馬の手綱を取るとなれば、余計に勝利への渇望は強くなるはずだ。それでも1993年のクラシック戦線で「三強」の手綱をとる稀代の名手のなかで、最も日本ダービー制覇への思いが強かったのは、当時44歳という現役生活の終焉がリアルに感じられる年齢を迎えていた柴田だったと言ってもいいだろう。
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