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バレーボール

彗星のごとく現れた日本バレー界のニュースター。高橋藍が熱血指導者と出会い、才能を開花させるまで【東京五輪】

北野正樹

2021.07.24

2014年の全中での高橋藍(左端、レシーブするのは兄の塁)。写真:千代祐介さん提供

2014年の全中での高橋藍(左端、レシーブするのは兄の塁)。写真:千代祐介さん提供

 諏訪が素質を見抜いたこの兄弟が着実に力をつけた時、信頼できる指導者がいてバレーに集中できる環境がある中学に進む可能性も考えられたが、ここでも偶然が重なる。

 兄の塁が中学進学を迎えた時、諏訪がまだ蜂ケ岡中学で指導していたのだった。諏訪によれば「地元の公立中学に進み、バレーができることが一番いい」と、家族も校区内の中学への進学を喜んだという。

 諏訪は、塁が蜂ケ岡中学に進学した1年後に異動するが、今度は千代が指導を引き継ぐ。

 千代は、京都市立岡崎中学時代に、「JOCカップ 第11回全国都道府県対抗中学バレー大会」(JOC杯)に京都選抜として出場。谷村孝(中央大-パナソニック)擁する福岡選抜に敗れたが8強入り。東山高、立命館でバレーを続け、4年間のサラリーマン生活を経て、教職生活をスタートさせたばかりだが、JOC杯の京都選抜男子チームのマネジャーに抜擢されるほど、指導者としても評価されるようになっていた。

 塁が3年になった2014年、今度は藍が入学する。身長158センチ。小さいから守備専門のリベロを1年間、続けたと言われているが、千代によるとリベロの期間は「5月の京都府大会前から全中(全国中学校大会)が終わる8月末までの約4か月間だった」という。
 
「塁も入学時に168センチ。3年で182センチまで伸びたことから、藍も180センチ程度までは伸びると予想した。この段階で守備を鍛えておけば、アタッカーになった時、役に立つはずだと考えた」と、千代はリベロに起用した理由を説明する。

 当時の藍は体重50キロ前後。中学生の速くて重いボールをうまく返せなかったが、それでも「いろんな経験を積むことが、将来の土台を作ることにつながる」と、千代の方針は揺るがなかった。千代は塁にも同じように守備を鍛えていた。同級生の2枚エースのひとりが2年の夏にJOC杯に選抜された期間、単独エースとなる塁にチームを引っ張る自覚を持たせるため、レシーブ力も備えたエースとして育てた経験があった。

 同じような思いでいた指導者は、ほかにもいた。藍が1年生の6月、大阪枚方市のパナソニックアリーナで開かれた「パナソニック杯」。近畿や東海、北信越などから20チーム以上の中学校が集まる大会で、蜂ケ岡中学は準優勝したが、藍のレシーブ力は目を引いた。JOC杯兵庫選抜男子監督を務めたこともある尼崎市立・園田東中教諭の山名泰明は、「早くからボールに触っていたためか、ボールへの反応がよかった。兄の塁君くらいに背が伸びれば、この大会に出たこともある石川祐希のようにレシーブも出来て打てる選手になるのではと思った」と振り返る。
 

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