先述の『世界ジュニア』の代表チームのエースで、シドニー五輪日本代表としても活躍した増淵まり子(現・淑徳大学監督)は、3学年下でチーム最年少だった上野を、「向こうから話しかけてくるようなことはあまりなかったけど、よく周りを見ている。頭の良い子だなと思いました」と当時の印象を語る。
その反面、周囲からの期待に応えようとするサービス精神、妙な責任感も持ち合わせていた。シドニー五輪の代表入りも囁かれ始めた高校3年の春、あろうことか学校の体育の授業中に、走り幅跳びの背面跳びでマットが敷かれていない地面に落ちて腰を骨折してしまう。当然、五輪出場の可能性も消えた。
「あれも、みんなに『上野なら行けるよ』みたいに言われて、『よっしゃー、やってやるか』みたいな感じでした。本当だったら自重しなきゃいけない時期なんです。完全に調子乗ってました」と上野は笑った。
上野が周囲に欲していたのは、“驚き”だった。マウンド上でのパフォーマンスは、カドの立たない自己主張であり、驚く周囲に対して、「フフフ」と胸の内でほくそ笑む。そういう天邪鬼な一面を持っている。だからこそ、デビュー戦で完全試合というサプライズを平然と狙っていたのだろう。
完全試合デビューの野望は潰えたが、ルーキーシーズンの2001年、日本リーグで2度の完全試合を、それも史上初の2試合連続というおまけ付きで達成。あっという間に所属チームだけでなく、日本代表でも主力を担う存在となった。
そして、五輪予選も兼ねた2002年の『世界ソフトボール選手権』(カナダ)。決勝トーナメントの「勝てば五輪出場権獲得」という中国との一戦に先発し、ここでも完全試合を達成。見事にアテネ五輪への出場を決めている。
しかし、自身初めてのオリンピックとなった2004年のアテネ五輪では挫折を経験する。
オーストラリアとの開幕戦で先発を任されたが、まさかの途中降板で敗戦投手に。その後も発熱などで体調を崩し、大会を通して調子が上がらない。そして最後の試合となった決勝進出を懸けたオーストラリア戦では、リリーフで待機していながらピンチの場面でも登板の声が掛からず。ゲームセットの瞬間をブルペンの金網越しに見つめていた。
活躍を期待されながら裏切る結果になったが、そんな苦闘の中でも、敗れれば予選リーグ敗退が決まる大事な中国戦に先発し、五輪史上初となる完全試合を達成。チームの危機を救う快投を見せている。これは意地が引き出した「本気」だったのか……。
上野は後に、このアテネ五輪の最後の場面での心境を「監督にまだ信頼しきってもらえてなかったんだなという自分への悔しさ」と振り返っている。ただ、その「悔しさ」が、そこから次の五輪までの4年間の原動力となった。
その反面、周囲からの期待に応えようとするサービス精神、妙な責任感も持ち合わせていた。シドニー五輪の代表入りも囁かれ始めた高校3年の春、あろうことか学校の体育の授業中に、走り幅跳びの背面跳びでマットが敷かれていない地面に落ちて腰を骨折してしまう。当然、五輪出場の可能性も消えた。
「あれも、みんなに『上野なら行けるよ』みたいに言われて、『よっしゃー、やってやるか』みたいな感じでした。本当だったら自重しなきゃいけない時期なんです。完全に調子乗ってました」と上野は笑った。
上野が周囲に欲していたのは、“驚き”だった。マウンド上でのパフォーマンスは、カドの立たない自己主張であり、驚く周囲に対して、「フフフ」と胸の内でほくそ笑む。そういう天邪鬼な一面を持っている。だからこそ、デビュー戦で完全試合というサプライズを平然と狙っていたのだろう。
完全試合デビューの野望は潰えたが、ルーキーシーズンの2001年、日本リーグで2度の完全試合を、それも史上初の2試合連続というおまけ付きで達成。あっという間に所属チームだけでなく、日本代表でも主力を担う存在となった。
そして、五輪予選も兼ねた2002年の『世界ソフトボール選手権』(カナダ)。決勝トーナメントの「勝てば五輪出場権獲得」という中国との一戦に先発し、ここでも完全試合を達成。見事にアテネ五輪への出場を決めている。
しかし、自身初めてのオリンピックとなった2004年のアテネ五輪では挫折を経験する。
オーストラリアとの開幕戦で先発を任されたが、まさかの途中降板で敗戦投手に。その後も発熱などで体調を崩し、大会を通して調子が上がらない。そして最後の試合となった決勝進出を懸けたオーストラリア戦では、リリーフで待機していながらピンチの場面でも登板の声が掛からず。ゲームセットの瞬間をブルペンの金網越しに見つめていた。
活躍を期待されながら裏切る結果になったが、そんな苦闘の中でも、敗れれば予選リーグ敗退が決まる大事な中国戦に先発し、五輪史上初となる完全試合を達成。チームの危機を救う快投を見せている。これは意地が引き出した「本気」だったのか……。
上野は後に、このアテネ五輪の最後の場面での心境を「監督にまだ信頼しきってもらえてなかったんだなという自分への悔しさ」と振り返っている。ただ、その「悔しさ」が、そこから次の五輪までの4年間の原動力となった。