その後も宝塚記念、天皇賞(秋)などで2着するなど好走を続けたものの、レースの勝負どころで気を抜く癖などもあり、なかなか勝利には結びつかず、”シルバーコレクター””ブロンズコレクター”という不名誉なニックネームまで付けられた。
そうかと思うと、初の海外遠征となった2001年のドバイシーマクラシック(GⅡ、メイダン・芝2400m)で、のちにワールドチャンピオンとなるファンタスティックライトを降して勝利を挙げる意外性を発揮。そして引退レースとなる同年の香港ヴァーズ(シャティン・芝2400m)では、とても届かないと思われる位置から爆発的な追い込みを見せて差し切って勝利し、ラストランで初のGⅠタイトルを手にするという劇的な幕引きをしたことでも知られている(ちなみに、このとき手綱をとった武豊騎手は「(直線は)飛んでいるようだった」とコメントしたが、のちにディープインパクトの走りを形容する際によく用いられた「飛ぶ」というフレーズを武騎手が初めて使ったのはこのときだと記憶している)。
さて、3歳になって厩舎スタッフや池添騎手の苦心の調整が実り、レースでの走りに安定感を身に着けたオルフェーヴルは、スプリングステークス(GⅡ、中山・芝1800m)を快勝すると、その後は圧倒的な強さで三冠制覇を達成。6連勝で年末の有馬記念(GⅠ、中山・芝2500m)も制して、文句なく”現役最強”の座に就いた。
ところが明け4歳となったオルフェーヴルは、初戦の阪神大賞典(GⅡ、阪神・芝3000m)で再び悪癖を出し、ファンの間では伝説ともなった珍レースを見せる。
レース前から入れ込んでいたオルフェーヴルは道中の超スローペースに耐え切れず鞍上の制止も聞かずに先頭まで突っ走ると、2週目の第3コーナーでは突如として逸走し、レースを止めようとする。
だが、そこからオルフェーヴルは単なる”駿馬”ではないことを証明する驚愕の走りを見せる。鞍上に促されて猛ダッシュで馬群を追い掛けると、10頭近くを交わしてぐいぐいと先頭に迫り、勝ち切ることこそできなかったものの、僅差の2着にまで追い込んだのだ。
そうかと思うと、初の海外遠征となった2001年のドバイシーマクラシック(GⅡ、メイダン・芝2400m)で、のちにワールドチャンピオンとなるファンタスティックライトを降して勝利を挙げる意外性を発揮。そして引退レースとなる同年の香港ヴァーズ(シャティン・芝2400m)では、とても届かないと思われる位置から爆発的な追い込みを見せて差し切って勝利し、ラストランで初のGⅠタイトルを手にするという劇的な幕引きをしたことでも知られている(ちなみに、このとき手綱をとった武豊騎手は「(直線は)飛んでいるようだった」とコメントしたが、のちにディープインパクトの走りを形容する際によく用いられた「飛ぶ」というフレーズを武騎手が初めて使ったのはこのときだと記憶している)。
さて、3歳になって厩舎スタッフや池添騎手の苦心の調整が実り、レースでの走りに安定感を身に着けたオルフェーヴルは、スプリングステークス(GⅡ、中山・芝1800m)を快勝すると、その後は圧倒的な強さで三冠制覇を達成。6連勝で年末の有馬記念(GⅠ、中山・芝2500m)も制して、文句なく”現役最強”の座に就いた。
ところが明け4歳となったオルフェーヴルは、初戦の阪神大賞典(GⅡ、阪神・芝3000m)で再び悪癖を出し、ファンの間では伝説ともなった珍レースを見せる。
レース前から入れ込んでいたオルフェーヴルは道中の超スローペースに耐え切れず鞍上の制止も聞かずに先頭まで突っ走ると、2週目の第3コーナーでは突如として逸走し、レースを止めようとする。
だが、そこからオルフェーヴルは単なる”駿馬”ではないことを証明する驚愕の走りを見せる。鞍上に促されて猛ダッシュで馬群を追い掛けると、10頭近くを交わしてぐいぐいと先頭に迫り、勝ち切ることこそできなかったものの、僅差の2着にまで追い込んだのだ。