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【名馬列伝】ダービーを勝つために生まれた”幸福の使者”。ウイニングチケットと好敵手たちの激闘録

三好達彦

2021.07.10

ウイニングチケット(10番)が、ビワハヤヒデ(7番)、ナリタタイシン(奥)との激闘を制した1993年のダービーは、今でも語り草だ。写真:産経新聞社

ウイニングチケット(10番)が、ビワハヤヒデ(7番)、ナリタタイシン(奥)との激闘を制した1993年のダービーは、今でも語り草だ。写真:産経新聞社

「当選切符(当たりくじ)」と名付けられた馬が、世代ナンバーワンを決める日本ダービーに優勝する。そのような、あまりにも出来過ぎた話が競馬世界ではごく稀に起こることがある。

 1990年、第60代の日本ダービー馬となったウイニングチケットは、彼に関わるあらゆる人たちに初めての「当選切符」を届ける”幸福の使者”だった。

 生産者は馬産地・日高を代表する名門の藤原牧場。1960年のオークスと有馬記念に優勝した名牝スターロツチを送り出し、これを祖とした母系から86年の天皇賞馬サクラユタカオー、87年の皐月賞と菊花賞の二冠を制したサクラスターオーなどを輩出。ウイニングチケットも曾祖母がスターロツチという、藤原牧場が誇る名牝系から連なる1頭として90年に生まれた。父は日本に輸入されたばかりの凱旋門賞馬、トニービンであった。
 
 預託を受けた調教師は、77年の皐月賞馬ハードバージ(藤原牧場が生産)、87年のオークス馬マックスビューティ、89年の桜花賞とオークスを制したシャダイカグラなどを育てた伊藤雄二。87年にはJRA賞の調教師三冠(最多勝利、最高勝率、最多賞金獲得)を独り占めするなど、敏腕トレーナーの名をほしいままにしていた。また特に牝馬クラシックと縁があったことから、「牝馬の伊藤」と呼ばれることもあった。

 そしてウイニングチケットの手綱を託されたのは、おそらく当時、騎手のなかで最も日本ダービーを勝ちたいと思っていたであろう柴田政人だった。

 柴田は岡部幸雄と並んで”関東の顔”とも言えるトップジョッキーだったが、日本ダービーの上位に入ることさえ稀で、85年の皐月賞を制したミホシンザンが骨折で不出走となった不運もあって、その他では2度の3着に入ったことがあるだけ。冗談で”競馬界の七不思議の一つ”と呼ぶ人さえいた。

 それには理由があって、柴田が特に義理を重んじる性格だったことが挙げられる。トップジョッキーならば強い馬の騎乗依頼を受けることは少なくないが、柴田は先約がある場合、いかに勝つ確率が高い馬の依頼が来てもそれを断り、愚直なまでに義理を通した。
 

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