直線でいったんは先頭に立ったものの、ロンシャンのタフな馬場に脚をとられたからか「飛ぶような走り」は見られず、2頭に交わされて3位で入線。またその後、現地で咳止めのために使った薬剤が、レース後に取った検体(尿)に残っていたことから失格の裁定が下されるという憂き目に遭う。
そして、それまでの盛り上がりから一転して、マスメディアが中心となって一大スキャンダルになってしまった。
年内での引退が決まっていたディープインパクトに残されたレースは2戦。ジャパンカップと有馬記念だ。陣営は彼が凱旋門賞で受けた汚名を何としてもすすぐ必要があった。
そしてディープインパクトは、そのタスクを背に「飛んだ」。
ジャパンカップを2馬身差で快勝すると、ラストランの有馬記念には直線だけで10頭をごぼう抜きにして、汚名を見事にすすいで有終の美を飾ったのである。
レース後には、闇に包まれた中山競馬場の本馬場で眩いばかりのライトを浴びながら引退式を済ませた桁違いの名馬は、ファンに別れを告げて北海道へと旅立っていった。
総額51億円(8500万円×60口)という破格の種牡馬シンジケートが組まれたディープインパクトは、父親としてもケタ違いの成功を収めた。
2012年から昨年まで9年連続でリーディングサイアー(種牡馬の産駒獲得賞金ランキング1位)に輝き続けており、三冠馬のコントレイル、ジェンティルドンナをはじめ、GⅠ勝ち馬を53頭も送り出し(海外を含む)、今年も海外で英オークス(GⅠ、エプソム・芝12ハロン6ヤード/約2420m)で2着に16馬身差、続く愛オークス(GⅠ、カラ・芝12ハロン)でも2着に8馬身半という、ともにレース史上最大着差をつけて圧勝したスノーフォール(Snowfall、生産は日本のノーザンファーム)が活躍中である。
1200万円からスタートした種付料は、2018年には4000万円まで高騰。もちろん、日本の生産史において比肩するものがない、ダントツのでナンバーワンであった。
2019年3月、頚椎骨折のために17歳で急死した彼の名前は、自身が勝ったレースである『弥生賞ディープインパクト記念』という名前にも残された。
最後に私的な思い出を少しだけ書かせてもらいたい。
3歳の夏、休養先の札幌競馬場で取材した際のこと。「オンとオフの切り替えがはっきりしている」とは聞いていたが、調教とクーリングダウンを終えて厩舎前で体を洗ってもらっていたところへうかがうと、ディープインパクトはすでにうつらうつらと船を漕いでいたのには驚いた。
周囲の厩舎スタッフが気を使ったり、ちょくちょく取材記者が訪れるのもまったくお構いなし。担当だった市川明彦厩務員や池江敏行調教助手にもぴりぴりした様子はなく、「これが本当に日本競馬の至宝なのか?」と拍子抜けするほどだった。
筆者が正気に戻ったのは、池江さんに「よかったら顔でも撫でてみたら?」と勧められた時だった。大人しい馬だとは分かっていても、「万が一、何かあったら……」とビビッて手が出せなかったことを、仕事であったとはいえ、今はとても後悔している。
文●三好達彦
【関連動画】「これが最後のディープインパクト!」2006年有馬記念のJRA公式レース動画
そして、それまでの盛り上がりから一転して、マスメディアが中心となって一大スキャンダルになってしまった。
年内での引退が決まっていたディープインパクトに残されたレースは2戦。ジャパンカップと有馬記念だ。陣営は彼が凱旋門賞で受けた汚名を何としてもすすぐ必要があった。
そしてディープインパクトは、そのタスクを背に「飛んだ」。
ジャパンカップを2馬身差で快勝すると、ラストランの有馬記念には直線だけで10頭をごぼう抜きにして、汚名を見事にすすいで有終の美を飾ったのである。
レース後には、闇に包まれた中山競馬場の本馬場で眩いばかりのライトを浴びながら引退式を済ませた桁違いの名馬は、ファンに別れを告げて北海道へと旅立っていった。
総額51億円(8500万円×60口)という破格の種牡馬シンジケートが組まれたディープインパクトは、父親としてもケタ違いの成功を収めた。
2012年から昨年まで9年連続でリーディングサイアー(種牡馬の産駒獲得賞金ランキング1位)に輝き続けており、三冠馬のコントレイル、ジェンティルドンナをはじめ、GⅠ勝ち馬を53頭も送り出し(海外を含む)、今年も海外で英オークス(GⅠ、エプソム・芝12ハロン6ヤード/約2420m)で2着に16馬身差、続く愛オークス(GⅠ、カラ・芝12ハロン)でも2着に8馬身半という、ともにレース史上最大着差をつけて圧勝したスノーフォール(Snowfall、生産は日本のノーザンファーム)が活躍中である。
1200万円からスタートした種付料は、2018年には4000万円まで高騰。もちろん、日本の生産史において比肩するものがない、ダントツのでナンバーワンであった。
2019年3月、頚椎骨折のために17歳で急死した彼の名前は、自身が勝ったレースである『弥生賞ディープインパクト記念』という名前にも残された。
最後に私的な思い出を少しだけ書かせてもらいたい。
3歳の夏、休養先の札幌競馬場で取材した際のこと。「オンとオフの切り替えがはっきりしている」とは聞いていたが、調教とクーリングダウンを終えて厩舎前で体を洗ってもらっていたところへうかがうと、ディープインパクトはすでにうつらうつらと船を漕いでいたのには驚いた。
周囲の厩舎スタッフが気を使ったり、ちょくちょく取材記者が訪れるのもまったくお構いなし。担当だった市川明彦厩務員や池江敏行調教助手にもぴりぴりした様子はなく、「これが本当に日本競馬の至宝なのか?」と拍子抜けするほどだった。
筆者が正気に戻ったのは、池江さんに「よかったら顔でも撫でてみたら?」と勧められた時だった。大人しい馬だとは分かっていても、「万が一、何かあったら……」とビビッて手が出せなかったことを、仕事であったとはいえ、今はとても後悔している。
文●三好達彦
【関連動画】「これが最後のディープインパクト!」2006年有馬記念のJRA公式レース動画