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プロ野球

王さんが監督じゃなかったら俺は成功できなかった――クロマティが振り返る日本での7年間【インタビュー】

2019.11.29

――巨人と契約したのは83年オフで、当時まだ30歳。バリバリのメジャーリーガーが日本に来るのは珍しいことだったはずです。

 そうだね。当時、俺は外国人選手の中でも最も若い一人だった。当時、日本のチームはもうキャリアの終わりに差しかかっているような選手ばかり獲得していたからね。

――日本行きを決めた理由は……

 250万ドルの年俸さ。

――サンフランシスコ・ジャイアンツからも好条件を提示されていたそうですが?

 もう少しでジャイアンツと契約するところだった。ところが、巨人の代表がモントリオールに来て、俺のことを1週間も追い掛け回したんだ。確かに、メジャーリーグを離れて日本に行くのは難しい決断だった。

 決め手になったのは王(貞治)さんだ。王さんはアメリカでもすごく有名だった。あのユニークなバッティングスタイルやハンク・アーロンとのホームラン競争とかね。それに、巨人でプレーすることも魅力だった。アメリカで言えばヤンキースやドジャースみたいな名門だからね。だから、2年くらい東京でプレーするのも悪くないなと思ったんだ。2年のつもりが、結果的には7年もいたんだけどね。
 
――当時、日本の文化についてはどのくらい知っていたんですか?

 実はあまりよく知らなかったから、自分でリサーチを始めたんだ。ロバート・ホワイティングの『菊とバット』を読んで、日本のスタイルについて予習したよ。日本人が走ることが大好きで、たくさん練習することも知った。

 実際に来てみると……1年目はチョットムズカシイ。移動やチームについて、それから日本式の野球についても学ばなければならなかったからね。ただ、王さんのおかげで助かった。王さんが監督じゃなかったら、俺は日本で成功できなかったと思う。俺の息子の名前はコディ・オー・クロマティ。王さんの名前をミドルネームにしたんだ。それくらい近い関係だった。アメリカに帰りたくなったことも2回くらいあったけど、そのたびに王さんが「落ち着いて話をしよう」と言ってくれてね。話をするうちに気が変わって、日本に残ったんだ。

――不振に苦しんでいた時に、青山の焼き鳥屋で王さんからアドバイスを受けたそうですね。

 ああ。その頃、俺はスウィングに問題を抱えていた。肩がどうしても開いてしまっていたんだ。そうしたら、王さんが「本を脇に挟んで振ってごらん。本が落ちるということは、肩が開いているということだ。本を落とさないようにスウィングするんだ」と言ってくれた。「OK、OK。ワカリマシタ」という感じだった。実際、すぐ打てるようになったよ。

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