トーナメント初出場となった53年は、ボブ・ペティットの奮闘で準決勝まで進出。LSUの所在地であるバトンルージュ生まれのペティットは、在学3年間で平均27.4点、14.6リバウンドと驚異的な成績を残し、54年のドラフト2位指名でホークスに入団する。206cmのビッグマンは56、59年にシーズンMVPを受賞したほか、58年はチームを球団史上唯一の優勝に導くなど、50~60年代を代表する名選手として一世を風靡。11年間のキャリアで毎年オールスターに出場し、大会史上最多タイとなる4度のMVPに輝いた。
しかしペティットが卒業した54年以降、LSUは長くトーナメントから遠ざかり、低迷期を迎えることになる。
66年にはプレス・マラビッチが新指揮官に就任。同じ年に入学したのが、プレスの息子ピート・マラビッチだった。〝ピストル・ピート〞と呼ばれた天才スコアラーは、その異名通りコート上のあらゆるエリアからシュートを沈め、3年間で通算3667点、平均44.2点と圧巻の数字を残す。どちらもディビジョンⅠ記録となっており、今後破られる可能性は極めて低いだろう。しかも3ポイントがない時代に達成されたということが、凄さをより一層際立たせている。
また、マラビッチはカレッジ史上最高のショーマンでもあった。魔術師と称されたほどの鮮やかなドリブルとパスで、アリーナに詰めかけたファンを次々と魅了。NBAでもその唯一無二のプレースタイルで暴れ回り、ニューオリンズ・ジャズ(現ユタ・ジャズ)時代の77年には得点王に輝いた。
しかしマラビッチが所属した3年間も、チームはトーナメントへ進むことができなかった。当時は各カンファレンスから1校しか出場資格がなく、強豪ケンタッキー大が常にLSUの行く手を阻んでいたからだ。
72年に入学したオーストラリア人のエディ・パルビンスカスは、1年目から平均18.6点と主力として活躍。76年にはモントリオール五輪に出場し、大会新記録(当時)の269点をマークした。NBAでのプレー経験はないものの、ロサンゼルス・レイカーズやオーランド・マジックからシューティングコーチとして雇われ、シャキール・オニール(以下シャック)やドワイト・ハワードのフリースロー改善に取り組んだ。
しかしペティットが卒業した54年以降、LSUは長くトーナメントから遠ざかり、低迷期を迎えることになる。
66年にはプレス・マラビッチが新指揮官に就任。同じ年に入学したのが、プレスの息子ピート・マラビッチだった。〝ピストル・ピート〞と呼ばれた天才スコアラーは、その異名通りコート上のあらゆるエリアからシュートを沈め、3年間で通算3667点、平均44.2点と圧巻の数字を残す。どちらもディビジョンⅠ記録となっており、今後破られる可能性は極めて低いだろう。しかも3ポイントがない時代に達成されたということが、凄さをより一層際立たせている。
また、マラビッチはカレッジ史上最高のショーマンでもあった。魔術師と称されたほどの鮮やかなドリブルとパスで、アリーナに詰めかけたファンを次々と魅了。NBAでもその唯一無二のプレースタイルで暴れ回り、ニューオリンズ・ジャズ(現ユタ・ジャズ)時代の77年には得点王に輝いた。
しかしマラビッチが所属した3年間も、チームはトーナメントへ進むことができなかった。当時は各カンファレンスから1校しか出場資格がなく、強豪ケンタッキー大が常にLSUの行く手を阻んでいたからだ。
72年に入学したオーストラリア人のエディ・パルビンスカスは、1年目から平均18.6点と主力として活躍。76年にはモントリオール五輪に出場し、大会新記録(当時)の269点をマークした。NBAでのプレー経験はないものの、ロサンゼルス・レイカーズやオーランド・マジックからシューティングコーチとして雇われ、シャキール・オニール(以下シャック)やドワイト・ハワードのフリースロー改善に取り組んだ。