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NBA

アジア人初の1位指名が誕生した2002年。“中国の至宝”を巡る攻防と、人生が一変した2位指名選手の物語【NBAドラフト史】

大井成義

2020.10.15

ヤオの参戦によりドラフトでは2位指名に甘んじたウィリアムズは、1年目のオフにバイク事故で瀕死の重傷を負い、わずか1年でNBAキャリアを終えた。(C)Getty Images

ヤオの参戦によりドラフトでは2位指名に甘んじたウィリアムズは、1年目のオフにバイク事故で瀕死の重傷を負い、わずか1年でNBAキャリアを終えた。(C)Getty Images

■悲劇のバイク事故によりウィリアムズの人生は一変

 1、2位で指名されたヤオとウィリアムズの、その後の足取りを辿ってみよう。

 マイケル・ジョーダンからフランチャイズ・プレーヤーのバトンを受け継ぐ選手として、大いに期待されたウィリアムズだったが、NBAへのアジャストに手間取ったこともあり、1年目は満足な結果を残すことはできなかった。それでも54試合に先発出場し、平均9.5点、4.7アシストをあげ、オールルーキー2ndチームに選出。デビュー7試合目には、ブルズの選手として4年ぶりとなるトリプルダブルを記録し、豊かな将来性を感じさせた。

 だが、迎えた2003年のオフにバイクで大事故を起こし、人生が一変してしまうことになる。

 ヤマハの大型スポーツバイク、YZF-R6(排気量600cc)でシカゴ北部の住宅街を走行中、交差点を右から走ってきたトラックより先に通過しようと、ウィリアムズは一時停止を無視してスロットルを開けた。トラックをギリギリでかわしたものの、直後にコントロールを失い、時速100km近いスピードで電柱に激突。ウィリアムズはノーヘルで、適切なバイクの免許を持たず、バイクやジェットスキー等の運転禁止というブルズとの契約を破っていた。
 
 救急搬送先の医師は、ウィリアムズのあまりの惨状に衝撃を受け、足の切断や死まで頭をよぎったという。内臓出血、足の主要神経の切断、骨盤骨折、左足の前十字靭帯を含む数箇所の靭帯断裂。文字通り瀕死の状態だった。医師は両親に連絡を取るよう指示し、すぐさま7時間半にも及ぶ緊急手術を施した。インターネットで今でも事故車の写真を見ることができるが、ハンドルから前が完全に潰れており、ノーヘルで助かったのは奇跡に近かったと思われる。

 15~16人の医師団による14回の手術と、懸命なリハビリも虚しく、ウィリアムズの身体が元の状態に戻ることはなかった。翌年2月、ブルズはウィリアムズを解雇。掴みかけていた輝かしい未来を失い、鬱状態に苦しみ、自殺を真剣に考えたこともあったという。

 何としてでもコートに戻りたいという強い意志のもと、ウィリアムズは驚異的な回復を見せ、2006年にネッツとトレーニングキャンプ期間の無保証契約を結ぶ。しかし1か月後に契約は破棄。その後Dリーグ(現Gリーグ)に挑戦し契約を勝ち取るも、再び1か月後に解雇される。ロケッツやキャブズ、ヒートなどのトライアウトも受けたが結果は出ず、現役復帰の夢を諦めるに至った。
 
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