リオネル・メッシがカタールで成し遂げたワールドカップ(W杯)優勝は、まさに“3度目の正直”だった。
そう言ったところで、言葉の意味をすぐに理解してくれる人はいないかもしれない。多くの人が「カタール大会はメッシにとって5度目のW杯ではないのか」と思うだろう。
だが、アルゼンチンの人々が、「よそ者」だったメッシを英雄として受け入れるまでの劇的な過程を間近で見届けてきた私は、彼が「母国で愛されるようになってから3度目のW杯」となったカタール大会での優勝に特別な感慨を覚えずにはいられない。
メッシが初めて母国のユニフォームを着たのは、2004年6月29日に行なわれたU-20代表の親善試合だった。国内のメディアの関心が、1週間後からペルーで開催されるコパ・アメリカに参戦するマルセロ・ビエルサ監督のアルゼンチンA代表に集まっていたため、ほとんど話題にはならず、集まった観客も3000人ほどだったと言われている。
この日、AFA(アルゼンチン・サッカー協会)がアルヘンティノス・ジュニオルスの本拠地でパラグアイとの親善試合を開催したのは、ある目論みを実現させるための口実に過ぎなかった。それはバルセロナのカンテラで才能の片鱗を示していた、当時17歳のメッシがスペイン代表に招集される前に、アルゼンチン代表としてプレーさせるというものだった。
ウーゴ・トカーリ監督が率いたU-20アルゼンチン代表でフィジカル・コーチを務めていたヘラルド・サローリオは、17歳のメッシについて「確かにずば抜けて巧く、性格も明るくていい子だったが、何かが足りなかった」と語っている。
「プレーしていない時は心ここに在らずという感じで、定まらない視線で遠くを見つめていた。振り向かせるために名前を2度呼ばなければいけなかったほど集中力が途切れることもあった。だが、我々と一緒に2週間過ごして親善試合をこなすと、あの子の目つきが鋭く変わった。その変貌ぶりは、バルセロナのスポーツディレクターが我々に『この子に一体何をしたんだ?』と聞いてきたほどだった」
パラグアイに続き、ウルグアイとも対戦したメッシは、「アルゼンチンにだけは負けたくない」という執念をむき出しにしてぶつかってくる南米のライバルたちを相手に、母国のユニフォームを着る意味を初めて知った。サローリオは、この時に「あの子の中で何かが覚醒した」と感じたそうだ。
また、この試合の前にトカーリはチームのキャプテンを務めていたパブロ・サバレタを呼び出し、「バルセロナから来た新しい仲間はとても内気で恥ずかしがり屋」であることから「君の方から積極的に話しかけてやってくれ」と頼んでいる。グループのリーダーで、人一倍面倒見の良いサバレタにメッシのケアを頼んだのは、ホセ・ペケルマンの右腕として長年育成に携わってきた指揮官らしい心遣いだった。
その翌年、コロンビアで開催されたU-20南米選手権で3位となり、同年にオランダで開催されたU-20W杯のメンバーにも選ばれたメッシは、事前合宿で後に親友となるセルヒオ・アグエロと知り合った。
バルセロナのトップチームで既にデビューしていた自分をチームで唯一「誰なのか知らなかった」という無垢なアグエロと、常に自分のことを気にかけてくれる兄貴分のサバレタに助けられてメッシは即チームに溶け込み、18歳で得点王とMVPの二冠を勝ち取る活躍を見せてアルゼンチンの優勝に大きく貢献。同大会でチームの指揮を務めたフランシスコ・フェラーロ監督は、この時のメッシとアグエロについて「2人はまるで長年チームメイトだったかのようにピッチ内外で意気投合していた」と語っている。
そう言ったところで、言葉の意味をすぐに理解してくれる人はいないかもしれない。多くの人が「カタール大会はメッシにとって5度目のW杯ではないのか」と思うだろう。
だが、アルゼンチンの人々が、「よそ者」だったメッシを英雄として受け入れるまでの劇的な過程を間近で見届けてきた私は、彼が「母国で愛されるようになってから3度目のW杯」となったカタール大会での優勝に特別な感慨を覚えずにはいられない。
メッシが初めて母国のユニフォームを着たのは、2004年6月29日に行なわれたU-20代表の親善試合だった。国内のメディアの関心が、1週間後からペルーで開催されるコパ・アメリカに参戦するマルセロ・ビエルサ監督のアルゼンチンA代表に集まっていたため、ほとんど話題にはならず、集まった観客も3000人ほどだったと言われている。
この日、AFA(アルゼンチン・サッカー協会)がアルヘンティノス・ジュニオルスの本拠地でパラグアイとの親善試合を開催したのは、ある目論みを実現させるための口実に過ぎなかった。それはバルセロナのカンテラで才能の片鱗を示していた、当時17歳のメッシがスペイン代表に招集される前に、アルゼンチン代表としてプレーさせるというものだった。
ウーゴ・トカーリ監督が率いたU-20アルゼンチン代表でフィジカル・コーチを務めていたヘラルド・サローリオは、17歳のメッシについて「確かにずば抜けて巧く、性格も明るくていい子だったが、何かが足りなかった」と語っている。
「プレーしていない時は心ここに在らずという感じで、定まらない視線で遠くを見つめていた。振り向かせるために名前を2度呼ばなければいけなかったほど集中力が途切れることもあった。だが、我々と一緒に2週間過ごして親善試合をこなすと、あの子の目つきが鋭く変わった。その変貌ぶりは、バルセロナのスポーツディレクターが我々に『この子に一体何をしたんだ?』と聞いてきたほどだった」
パラグアイに続き、ウルグアイとも対戦したメッシは、「アルゼンチンにだけは負けたくない」という執念をむき出しにしてぶつかってくる南米のライバルたちを相手に、母国のユニフォームを着る意味を初めて知った。サローリオは、この時に「あの子の中で何かが覚醒した」と感じたそうだ。
また、この試合の前にトカーリはチームのキャプテンを務めていたパブロ・サバレタを呼び出し、「バルセロナから来た新しい仲間はとても内気で恥ずかしがり屋」であることから「君の方から積極的に話しかけてやってくれ」と頼んでいる。グループのリーダーで、人一倍面倒見の良いサバレタにメッシのケアを頼んだのは、ホセ・ペケルマンの右腕として長年育成に携わってきた指揮官らしい心遣いだった。
その翌年、コロンビアで開催されたU-20南米選手権で3位となり、同年にオランダで開催されたU-20W杯のメンバーにも選ばれたメッシは、事前合宿で後に親友となるセルヒオ・アグエロと知り合った。
バルセロナのトップチームで既にデビューしていた自分をチームで唯一「誰なのか知らなかった」という無垢なアグエロと、常に自分のことを気にかけてくれる兄貴分のサバレタに助けられてメッシは即チームに溶け込み、18歳で得点王とMVPの二冠を勝ち取る活躍を見せてアルゼンチンの優勝に大きく貢献。同大会でチームの指揮を務めたフランシスコ・フェラーロ監督は、この時のメッシとアグエロについて「2人はまるで長年チームメイトだったかのようにピッチ内外で意気投合していた」と語っている。