1992年の初戦はスプリングステークス(GⅡ、中山・芝1800m)。捻挫で予定していたシンザン記念(GⅢ、京都・芝1600m)を使えなかったこともあって、競走生活でただ1度の2番人気に甘んじたが、彼はここで驚異的なレースを見せる。
好スタートからラクに先頭を奪って主導権を握ると、降雨で「重」となったタフな馬場をマイペースで逃げるのだが、これについていける馬はなく、小島騎手に軽く促されると後続との差をぐんぐん広げ、ゴールでは2着に7馬身もの差を付けていたのだ。
レース前には敗れた場合は短距離戦線へ舵を切る可能性若干ながら匂わせていた戸山調教師だったが、この圧倒的なパワーとスピードを見て、クラシック路線への大きな自信を得ることになった。
【名馬列伝】競馬の枠を超えたディープインパクトの衝撃。その「成功」はまさに唯一無二 迎えた一冠目の皐月賞(GⅠ、中山・芝2000m)。単勝オッズ1.4倍というダントツの1番人気に推されたミホノブルボンは、ファンからの熱狂的な支持にあっさりと答えて見せる。
4番枠からスタートしたミホノブルボンはスピードの違いで先頭に立つと、あとはマイペースの一人旅。1000mの通過が59秒8という、降雨でやや渋り気味の馬場においては速いペースだったが、スタミナを奪われたのは後続の馬たちのほうだった。直線に向いて先行勢を突き放すと、追い込んできたナリタタイセイに2馬身半の差を付けて圧勝。いわゆる”モノの違い”を見せつけるような、無慈悲なまでに強い勝ち方だった。
次に迎えたのは大一番、日本ダービー(GⅠ、東京・芝2400m)。雨の影響が残って馬場状態は稍重となったが、重馬場のスプリングステークスで圧勝を遂げているミホノブルボンにとって、これはさらなる追い風となった。
15番枠という外枠からのスタートとなったが、無理なく先頭に立ったミホノブルボン。彼を追走した先行馬が総崩れになったこともあって無理に競り掛けてくる馬はおらず、1000mの通過は61秒2というマイペース。鞍上の小島貞博騎手は首をひねって後続の様子を確かめる余裕さえあり、手綱を抑えたままで最終コーナーを回る。
そして直線。坂の手前でゴーサインを受けたミホノブルボンは力強く”二の脚”を繰り出し、離れた2番手を進んでいた16番人気のライスシャワーに4馬身差を付けて、鮮やかな逃げ切りで二冠目のゴールを駆け抜けた。史上8頭目となる無敗での日本ダービー馬の誕生だった。
戸山為夫調教師にとっては、やはりスパルタ調教で育てた1968年のタニノハローモア以来となる二度目のダービー制覇で、「鍛えて馬を強くする」という彼の信念がまた結実した瞬間であった。
好スタートからラクに先頭を奪って主導権を握ると、降雨で「重」となったタフな馬場をマイペースで逃げるのだが、これについていける馬はなく、小島騎手に軽く促されると後続との差をぐんぐん広げ、ゴールでは2着に7馬身もの差を付けていたのだ。
レース前には敗れた場合は短距離戦線へ舵を切る可能性若干ながら匂わせていた戸山調教師だったが、この圧倒的なパワーとスピードを見て、クラシック路線への大きな自信を得ることになった。
【名馬列伝】競馬の枠を超えたディープインパクトの衝撃。その「成功」はまさに唯一無二 迎えた一冠目の皐月賞(GⅠ、中山・芝2000m)。単勝オッズ1.4倍というダントツの1番人気に推されたミホノブルボンは、ファンからの熱狂的な支持にあっさりと答えて見せる。
4番枠からスタートしたミホノブルボンはスピードの違いで先頭に立つと、あとはマイペースの一人旅。1000mの通過が59秒8という、降雨でやや渋り気味の馬場においては速いペースだったが、スタミナを奪われたのは後続の馬たちのほうだった。直線に向いて先行勢を突き放すと、追い込んできたナリタタイセイに2馬身半の差を付けて圧勝。いわゆる”モノの違い”を見せつけるような、無慈悲なまでに強い勝ち方だった。
次に迎えたのは大一番、日本ダービー(GⅠ、東京・芝2400m)。雨の影響が残って馬場状態は稍重となったが、重馬場のスプリングステークスで圧勝を遂げているミホノブルボンにとって、これはさらなる追い風となった。
15番枠という外枠からのスタートとなったが、無理なく先頭に立ったミホノブルボン。彼を追走した先行馬が総崩れになったこともあって無理に競り掛けてくる馬はおらず、1000mの通過は61秒2というマイペース。鞍上の小島貞博騎手は首をひねって後続の様子を確かめる余裕さえあり、手綱を抑えたままで最終コーナーを回る。
そして直線。坂の手前でゴーサインを受けたミホノブルボンは力強く”二の脚”を繰り出し、離れた2番手を進んでいた16番人気のライスシャワーに4馬身差を付けて、鮮やかな逃げ切りで二冠目のゴールを駆け抜けた。史上8頭目となる無敗での日本ダービー馬の誕生だった。
戸山為夫調教師にとっては、やはりスパルタ調教で育てた1968年のタニノハローモア以来となる二度目のダービー制覇で、「鍛えて馬を強くする」という彼の信念がまた結実した瞬間であった。