12万超の観客が見つめるなかスタートした菊花賞。宣言どおりにキョウエイボーガンが松永幹夫騎手に手綱をしごかれながら強引に先頭を奪い、ミホノブルボンは2番手を追走するが、久々に馬を前に置いてのレースとなったことがあってか、やや”行きたがる”様子を見せたため、小島騎手が懸命にそれを抑える様子も見られ、不安の影が場内に漂いはじめた。
キョウエイボーガンが刻んだ1000mの通過ラップは59秒7と、長距離レースの菊花賞では稀に見るほどのハイペース。そのため異様なまでに縦長となった馬群は、ばらけた状態で2周目の坂を上って下りる。
動きが出たのは第3コーナー過ぎのこと。バテたキョウエイボーガンを交わしてミホノブルボンが先頭に立って最終コーナーを回り、死力を尽くしてゴールを目指す。
そのとき、後続集団から忍び寄っていた刺客がいた。日本ダービー、京都記念で2着に降していたライスシャワーだった。
懸命に粘ろうとするミホノブルボンだったが、ハイペースの2番手を追走したことによって失われたスタミナは尽きかけており、迫りくるライスシャワーに抵抗する力は残っておらず、しぶとく食い下がるマチカネタンホイザを抑えて2着を守るのが精一杯だった。
ついにストップした「栗毛の超特急」の無敗の進撃。その悲劇的なシーンを目にしたファンからは一斉に溜息が漏れ、瞬くうちにスタンド全体に広がっていった。
レース後には、
「逃げなかったから」
「ハイペースを追い掛けすぎた」
「血統的に距離が長すぎた」
など、さまざまな敗因分析が行われたが、どれが真実だったのかはいまもって分からない。
その後、出走を予定していたジャパンカップ(GⅠ、東京・芝2400m)の追い切り前に後肢の跛行が見られたため、それを回避して休養に入ったミホノブルボンは、翌年にも同じ右後肢に骨膜炎を発症していることが判明。ついに現役続行を断念し、1994年の1月、東京競馬場で日本ダービー制覇時に付けた「15」番のゼッケンを背に引退式を行い、ファンに別れを告げた。
わずか2年、計8レースという短い競走生活のなかで、力感あふれる逃げによって、かつてないほど強烈な輝きを見せた「坂路の申し子」ミホノブルボン。そのヒーローを育て上げた戸山為夫調教師は、日本ダービー制覇時にはすでに発症していたという食道癌の悪化によって、愛馬の引退を待たずして1993年5月に死去。前年に病床で書いた著書『鍛えて最強馬を作る-ミホノブルボンはなぜ名馬になれたのか』は死の1か月後に出版され、JRA馬事文化賞を受賞した。
<了>
取材・文●三好達彦
【名馬列伝】坂路で鍛え上げられた“逃げ馬”ミホノブルボン。デビュー戦は致命的な出遅れも10頭以上を一気に――[前編]
【名馬列伝】代替種牡馬から生まれた稀代の優駿キタサンブラック。鍛え抜かれたタフさでG1レース7勝の王者に<前編>
【名馬列伝】「長い距離は持たない」と言われたキタサンブラックが見せつけた意地と底力<後編>