ウイニングチケットはその後、秋の始動戦となった京都新聞杯に優勝。しかし、菊花賞、ジャパンカップで3着に入ったものの、柴田が落馬事故での重傷で戦列を離れた翌年は勝利を挙げることができず、天皇賞(秋)で8着に敗れた際に屈腱炎を発症。柴田の復帰を待つことなく現役を引退し、種牡馬になった。また、怪我の回復が思わしくなかった柴田も95年の2月に騎手を退き、調教師に転身した。
ライバル関係にあった2頭も明と暗が入り混じる馬生を過ごすことになる。
ビワハヤヒデは三冠目の菊花賞を制すると、翌年は天皇賞(春)、宝塚記念を連勝して、古馬のエースにまで上り詰めた。しかし、単勝オッズ1.5倍というダントツの1番人気で臨んだ天皇賞(秋)で5着に敗れたうえ、この際に屈腱炎を発症していたため、惜しまれながら現役を引退し、種牡馬に転じた。
ナリタタイシンは、菊花賞は心房細動で大敗したものの、翌年の目黒記念に優勝。天皇賞(春)ではビワハヤヒデとの一騎打ちとなったが、差し届かず2着に敗れた。その後は骨折や屈腱炎の発症と不運が続き、95年の宝塚記念を最後に引退、種牡馬入りした。
1951年のこと。10戦無敗で日本ダービーを制し、それからわずか17日後に破傷風による敗血症で死んだトキノミノルを作家の吉屋信子は、新聞に寄せた追悼文に「(前略)あれはダービーに勝つために生まれてきた幻の馬だ」と書いた。
その伝に倣うなら、ウイニングチケットは「柴田政人にダービーを勝たせるために生まれてきた幸福の使者だ」と呼んでも許されるだろうと筆者は思っている。(文中敬称略)
文●三好達彦
【関連動画】語り継がれる3頭の死闘!ウイニングチケットがビワハヤヒデ、ナリタタイシンに競り勝った1993年の日本ダービーのJRA公式レース動画
ライバル関係にあった2頭も明と暗が入り混じる馬生を過ごすことになる。
ビワハヤヒデは三冠目の菊花賞を制すると、翌年は天皇賞(春)、宝塚記念を連勝して、古馬のエースにまで上り詰めた。しかし、単勝オッズ1.5倍というダントツの1番人気で臨んだ天皇賞(秋)で5着に敗れたうえ、この際に屈腱炎を発症していたため、惜しまれながら現役を引退し、種牡馬に転じた。
ナリタタイシンは、菊花賞は心房細動で大敗したものの、翌年の目黒記念に優勝。天皇賞(春)ではビワハヤヒデとの一騎打ちとなったが、差し届かず2着に敗れた。その後は骨折や屈腱炎の発症と不運が続き、95年の宝塚記念を最後に引退、種牡馬入りした。
1951年のこと。10戦無敗で日本ダービーを制し、それからわずか17日後に破傷風による敗血症で死んだトキノミノルを作家の吉屋信子は、新聞に寄せた追悼文に「(前略)あれはダービーに勝つために生まれてきた幻の馬だ」と書いた。
その伝に倣うなら、ウイニングチケットは「柴田政人にダービーを勝たせるために生まれてきた幸福の使者だ」と呼んでも許されるだろうと筆者は思っている。(文中敬称略)
文●三好達彦
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