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NBA

ハズレ年に挙げられるも、ケンプ、ハーダウェイ、ディバッツら11位以下に魅力的な才能が集結。豪華トリオが結成していた可能性も!【NBAドラフト史:1989年】

大井成義

2020.03.27

ドラ1としては物足りなかったエリソンだが、MIPを受賞するなど輝きを放った年もあった。(C)Getty Images

ドラ1としては物足りなかったエリソンだが、MIPを受賞するなど輝きを放った年もあった。(C)Getty Images

 キングスが1位で指名したのは、その3人にも含まれていないエリソンだった。身長206cmのセンターは、1年時にチームをNCAAチャンピオンの座に導き、史上2人目となる1年生でのファイナル4最優秀選手賞を受賞。その物怖じしないプレーぶりから、付いた渾名が“ネバー・ナーバス・パービス(強心臓のパービス)”。

 NBAでは1年目からケガに悩まされ続け、34試合の出場にとどまった。平均8.0点、5.8リバウンドと満足な結果を残せず、チームメイトのダニー・エインジから“アウト・オブ・サービス・パービス(非稼働中、運転休止中のパービス)”という、笑うに笑えないニックネームを付けられている。

 そしてルーキーシーズン終了後、なんとトレードで放出。天下のドラ1がわずか1年で見切りを付けられ、三角トレードの一員としてワシントン・ブレッツ(現ウィザーズ)への移籍を強いられた。これに奮起したエリソンは、ケガが癒えてきたこともあり、2年目は主に控えとして76試合に出場。3年目は先発に定着し、平均20.0点、11.2リバウンド、2.68ブロックという好成績を収め、見事MIP賞を受賞する(ドラ1では史上唯一)。

 晴れて復活を果たしたと思いきや、数箇所のケガが再発し、特に両ヒザの故障がエリソンを苦しめた。翌シーズンもそれなりの結果を残したが、その後は下降線の一途を辿り、2度の移籍を経て2001年に引退している。
 
 1980年代後半のデューク大黄金期を牽引し、“ラリー・バード2世”と呼ばれたフェリーは、2位で指名したクリッパーズへの入団を拒否。海を渡りイタリアリーグでプレーするという身勝手な行動に走り物議を醸した。

 獲得を諦めざるを得なかったクリッパーズは、クリーブランド・キャバリアーズとのトレードを断行、フェリーはクリーブランドでプロ生活の大半を過ごしている。13年間のキャリアで平均7.0点、2.8リバウンド(一応ポジションはフォワード)、3ポイント成功率39.3%。

 今回気づいたのだが、トップ10指名選手のなかでウィキペディア日本語版のページが存在するのはフェリー、エリオット、ライスの3人だけだった。なんと、栄えあるドラフト1位指名選手のエリソンすら作成されていない。こんな年はほかにないだろう。
 
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